瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張「装飾評伝」(5)

 「史疑」は、この「女房殺し」が蔵書家殺しに波及するという展開になる。その展開に無理がある、と思ったので覚えていたのだが、それはともかく、話を9月16日付(3)に戻して、「装飾評伝」の、芦野信弘の娘(実は名和薛治の娘)陽子について。

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 松本氏も当初、出生直後は疑いに過ぎなかった本当の父親の問題が、陽子が長ずるに及んで確定的になった、というつもりで「二」章、14頁に「三つ」と書いて置いたはずなのに、後半、この「三つ」を見失ってしまう。そのために、

 ところで、芦野はいつごろからその事実を知ったのであろうか。……

などとボケたことを「五」章の謎解きで「私」に書かせている(29頁)。折角、「四」章で2人の昔の仲間の葉山光介に「似てるだろう?」と、陽子の顔が問題なのだという示唆(26頁)を与えられながら、それが陽子が「三つ」のときなのだ、ということを忘れたために、その辺りを巡っての謎解きが「いつごろからか」などと少し曖昧になり、本当はもっとすんなりと進められたはずが、少々渋滞してしまっているのである。
 すなわち、――「私」は、芦野信弘が「妻と別れたであろうのちも名和を頻繁に訪ねている」として、これを「陰湿」な「名和への襲撃」と捉えている。離婚が「大正十五年」であったのなら、確かに「頻繁な芦野の来訪」という「陰湿」な「襲撃」から「名和は遁れたかったのである」という推測にもなろう。しかし、芦野夫妻の離婚と名和薛治の青梅隠棲が同年のことなのだから、「別れたであろうのち」の期間は短縮される(或いは、なかった)はずで、「襲撃」よりも離婚の衝撃の方が、名和薛治にとって遥かに強かったと考えることも出来る、ような気がする。――と、ここで私も「ような気がする」と曖昧にせざるを得ないのは、翌年だと長いような気がするが、大正15年(1926)12月と昭和2年(1927)1月では前年・翌年であっても1ヶ月しかないが、昭和2年(1927)1月と12月では同じ年でも約1年の幅があるので、こんな風に書いては見たものの、この自分の想定を強く主張しようとは思わない。やはり松本氏が芦野夫妻の離婚の時期を書きながら忘れていたのは、不注意じゃないか、ということだけだ。
 ところで名和薛治の青梅隠棲は、芦野信弘『名和薛治』に「次の年にはじまる彼の放浪生活の前兆のようなもの」と位置付けられている(20頁)訳だが、さらに「私」は、「別れた芦野の妻が自殺した」という噂は「実際のような気がする」として、その時期を「北陸の旅に出て放蕩を尽しはじめ……る直前のように私は思えてならない」と、その後の名和の行動に関連付けている。
 恐らく松本氏も、陽子の「わたしが母と別れたのは三つの時」という台詞(14頁)を書いたときには、陽子の出生の秘密の曝露から陽子の母の自殺・名和薛治の放浪生活へと、もっと緊密に畳みかけていく構想だったのだろう。しかしながら、それをうっかり忘れてしまったことで、妙な按配になってしまった訳だ。

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 この、時期の問題ということでは、名和薛治は「昭和三年ごろ」(9頁・22頁)から「昭和六年の冬、能登の西海岸の崖から墜ちて死」ぬ(35頁)まで「放浪生活」を続けていた訳だが、その期間について「四」章の22頁に「二年間の放浪生活」とあることも、一応確認して置くべきだろう。――「昭和六年の冬」というのは年末ではなく立春の前、昭和6年(1931)1月か、幅を見て2月、ということになる。年末だったら昭和3年(1928)から数えて「二年間」にはならない。(以下続稿)