瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『岸田劉生晩景』(4)

 単行本の書影が表示されているAmazon詳細ページがあった。ここに貼り付けて置く。

岸田劉生晩景 (1980年)

岸田劉生晩景 (1980年)

 内容については11月18日付(3)の続きで、文庫本にて確認して行くこととする。

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新潮文庫3021
 この「筆写」が単行本及び文庫版の刊行された昭和50年代の作品でないことは「女中」が同居していることから察せられるが、ではいつ頃の話かというと、どうもそれが分からない。現在の主人公「安之助」の年齢は54頁4行め「七十二」で、56頁14行め、一人息子の「秀人は四十九で」嫁の「桂子が四十三だった。秀人は安之助の二十三歳のときの子で」とある。ヒントになるのは、83頁1行め以降に記されている「終戦から間もないとき」の回想に、2〜3行めに「秀人が学徒兵として南方に行ったまま帰らないとき、安之助は停/年間際の校長として山奥の学校にいた」とあることで、秀人の年齢からして25年くらい前のことのように思えるが、しかしそうすると安之助はまだ50前ということになってしまい「停年間際」に合わないような気がする。そしてこのとき、既に17行め「嫁」の「桂子」と一緒に暮らしていることになっている。しかし、57頁1行め以降に書いてあることと照合すると、この回想は何だか変なのである。

 安之助は中学校の校長で終ったが、苦しい中で秀人を大学に入れた。秀人が卒業間際に東/京から安之助の生地の信州に帰ったことがあるが、何が気に入らなかったのか、そのころか/ら父親にろくに口を利かなくなった。それが三、四年つづいたが、桂子と結婚して二年目か/らよけいに秀人は安之助と話をしなくなった。それがいまだにつづいている。……


 この「三、四年」と「二年目」が重なるのかどうか、「三、四年」の最後が「二年目」なのか、「三、四年」経って後桂子と結婚してさらに「二年目」なのか、この書き方では分からないが、とにかく大学を卒業してから桂子と結婚したように読める。ところが、後段(83頁)に持ち出される回想場面では、秀人は「学徒兵」として出征しており、しかも桂子とも既に結婚していたことになっている。矛盾していると判断するより他ない。
 そこで、基準として執筆・発表の時期が重要な意味を持って来る。11月2日付(1)に引いた単行本の「発表誌一覧」を見るに「筆写     新潮 昭和三十九年三月号」とある。従って、昭和38年(1963)現在ということとして、また登場人物の年齢を満年齢として、安之助は明治24年(1891)頃、秀人は大正3年(1914)頃、桂子は大正9年(1920)頃の生れということになる。83頁「終戦から間もないとき」に安之助が「停年間際」というのは良いが、秀人は30近くなってから、恐らく昭和18年(1943)に「学徒兵」として出征したことになってしまうので、これはやはり57頁の設定、すなわち出征のことは記載されていないものの、戦前に大学を卒業していたらしい設定に従って置くのが、無難なのではないだろうか。それだのに主人公に嫁の桂子に欲情してしまった経験を回想させるために、83頁のような状況を急に思い付いて、57頁との矛盾に気付かぬまま書いてしまった、というのが実情だろうと思う。尤も57頁の通りだとすると、秀人が戦争とどのように関わったのか、が曖昧になってしまうのだが。ちなみに56頁11行め「孫二人」のうち11〜12行め「上の/ほうは健樹という名で高校二年生になる。」とあるから、昭和21年(1946)度に生まれている訳だ。(以下続稿)