・角川文庫901(4)
本体について。改版十版と改版三十版は本体(285頁)はほぼ同じ。改版四十一版(281頁)は改版されている。
改版十版の表紙は明るい黄土色で網目の透かし模様がある。1月13日付「中島敦の文庫本(02)」で見た角川文庫294『李陵・弟子・名人傳』十三版や5月8日付「夏目伸六『父夏目漱石』(07)」で見た角川文庫2080『父 夏目漱石』十版、10月17日付「太宰治『人間失格』の文庫本(14)」で見た角川文庫28『人間失格・桜桃』改版三十二版に同じ。
1頁(頁付なし)扉、改版十版は双郭の内に横組みにて、上部に「高 野 聖/他四篇」少し離れて著者名、下部に鳳凰のマーク、その下に「角川文庫/901」。改版三十版と改版四十一版は単郭の上部に子持ち枠という現行のレイアウト。改版十版の鳳凰は右向き、改版三十版の鳳凰は左向きでこれまで脚を揃えていたのが拡げており、羽を1つ銜えている。改版四十一版は改版十版と左右対称になっていて左向きで、色が濃くなっている。
扉裏(頁付なし)、改版十版と改版三十版には10月15日付「太宰治『女生徒』の文庫本(4)」に引いた角川文庫863『女生徒』改版二十六版と同じ(編集部)の断り書がある。
3頁「目次」、改版十版に比して改版三十版は印刷が鮮明である。改版四十一版との異同は、「解 説」の「村松 定孝」の下に頁数が示されていたのを止めたこと、「作品解説」と「年 譜」がなくなっていることで、大きくゆったりと組まれている。
5頁から本文、改版十版・改版三十版は1頁17行、1行43字(印字面12.0×7.8cm)。改版四十一版は1頁17行、1行40字(印字面12.3×9.2cm)。「義血侠血」5〜71頁→5〜75頁、「夜行巡査」72〜92頁→76〜97頁、「外科室」93〜108頁→98〜114頁、「高野聖」109〜179頁→115〜188頁、「眉かくしの霊」180〜226頁→189〜238頁。作品ごとの扉はなく、末尾の( )内に初出を示す。
末尾、13頁めの21行めに(三田英彬)とある227〜239頁→239〜251頁「注釈」は155項目、1頁21行、1行49字分。これは改版四十一版で組み直されているが行数も字数も同じである。但し3頁めの、229頁7〜8行めの2行にぎりぎり収まっていた「*越前福井」の説明(本文位置は四六→四九)中の括弧を半角から全角に変えたために、改版四十一版では241頁7〜9行めの3行になって(3行めは「う。」)、以下1行ズレている。ところが最後の頁の21行めに担当者名が入っているために、このズレをそのままにしてしまうと1行、担当者名のみが次の頁にはみ出してしまう。そこで最後の頁、239頁3〜4行め「一八六*鯉口」の説明の2行めが「う。」だけであるのを、改版四十一版では251頁4行め「一九六*鯉口」の活字を僅かに小さくして1行に収めている。
ざっと眺めただけで詳しい比較はしていないが、若干気付いたところを挙げて置く。まず「八三*癩病坊 癩病の男。癩病患者。」が「八八*かったい坊 ハンセン病患者を当時このように呼んだ。」に変わっている。本文を見るに83頁8行め「癩病坊」に振仮名「かつたい」とあったのが改版四十一版87頁17行め〜88頁1行めでは「かった/い坊」となっている。「癩」の文字がいけないのである。それから238頁15〜16行め「一八一」頁の「*寝覚の床」が改版四十一版250頁16〜17行め「一九〇」頁のところでは「*寐覚の床」という表記に変わっている。それはともかくとして、続く説明が可笑しい。「木曾路の一部。長野県駒ヶ根市のある景勝地。木曾川の急流に沿い、奇岩が岸や川中に突出し/ている。」と云うのだが、駒ヶ根市は天龍川流域の伊那谷(旧上伊那郡)で、木曽川は流れていない。本文を見るに、181頁8〜9行め、「眉かくしの霊」の「一」章の冒頭近く、
この、筆者の友、境賛吉は、実は蔦かずら木曾の桟橋、寐覚の床などを見物のつもりで、上松/までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。*1
とある。改版四十一版190頁9〜10行めも同文*2。改版十版・改版三十版でも本文は「寐覚の床」なのだが、「木曾の桟橋」とともに、この小説の初出(大正十三年五月「苦楽」)当時は、大正11年(1922)9月1日町制施行の長野県西筑摩郡上松町、その後、昭和43年(1968)5月1日に西筑摩郡が木曽郡と改称されて現在は長野県木曽郡上松町である。上松は中山道の宿場で、上松駅は明治43年(1910)10月5日開業。ではなぜ三田氏が「駒ヶ根」と誤ったのか、ということだが、町制施行までは長野県西筑摩郡駒ヶ根村だったのである。ちなみに伊那の方は昭和29年(1954)7月1日に2町2村が合併して市制施行して駒ヶ根市となったもので、これがどこかで紛れてしまったのであろう。しかしその前の「*木曾の桟橋」の注(やはり238頁13〜14行め「一八一」→250頁14〜15行め「一九〇」のところ)には「木曾路の一部。長野県西筑摩郡の木曾福島と上松両駅間トンネルの入り口。次注とともに/木曾三絶勝の一つ。」とあるのだ。三田氏はこの注を作成したときに地図を見ておれば、「寝覚の床」は上松駅の南方、同じ上松町内にあることにすぐ気付いたはずで、「駒ヶ根市」などとは誤らなかったはずである。それにこれでは「木曾福島」側の「入り口」のように読めるが、実際は「上松」側の「入り口」の近くである。かつ、西筑摩郡は本書の改版初版が発行された昭和46年(1971)4月20日のちょうど3年前に木曽郡に改称されているので、ここも最新の状況を確認せずに古い資料をそのまま引き写している訳である。これらの誤りは象嵌で修正しても良かったし、遅くとも、いつだか分からぬが改版三十版と改版四十一版の間に行われた表示されていない改版時に、これだけ地名の改変の激しい時代なのだから、指摘がなくとも地名くらいは点検して、修正して置くべきだったのではないか。(以下続稿)