瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

謬説の指摘(2)

 ところが、学界というところは基本的に「金持ち喧嘩せず」の世界で、謬説の修正ということに消極的です。
 ある主題について、その時代の専門家でもない人物が思い付きで乗り込んできて、少々怪しい説を唱え、その説がそれなりに有名になってしまう、ということがあります。私がやっていた辺りの研究でもそういうことがあったのですが、そのとき、先に同じ主題について、しっかりと読み込んで穏当な説を唱えていた先輩に、「■■氏の説はいけないのではないか」という話をしたことがありました。その先輩もやはり■■氏の説は危ない、とは思っていたようで同意してくれましたが、「反論すべきではないのか」という提案に対しては、「ただ反論するだけでは、喧嘩になるから」と言うのです。
 まだ修士課程の院生だった私にはこの感覚が、どうもよく分かりませんでした。学問の世界は主題について正しい理解に達することを目指しているはずだのに、「いけない」説を「いけない」ということが何故喧嘩になるのか。「いけない」説を放置していたら、その説のいけないところに気付かない連中が、その「いけない」説に基づいてさらに「いけない」説を立てかねない。だから、早いうちに「いけない」説が不注意に発展させられてしまうことがないよう、「いけない」ことを明確にさせて置くべきで、そのようなノイズは放置するべきではない、と思ったのです。
 その後、10年ほど院生生活を続けて、分かったのが「金持ち喧嘩せず」です。大学の教員などの立場のある人が、誤解から新発見をしたと思い込んだり、先行研究に気付かず同じことを書いたり、思い込み(先入観)から資料を恣意的に、自分の予断に都合良く読んだり、そんなことをしているのだが、そういうことを、それだけ言っては、いけないのです。必ず、対案を出して言わないといけない。国会なら対案がないのに反対したら「反対野党」などと卑しいもののように言われても、あそこは物事を決めるところなので仕方がないでしょう。尤も全て多数決で決める議会で絶対通らないのに真面目に対案を考えるほど馬鹿馬鹿しいこともないようにも思いますが。しかし、学問は正しいことを目的とするのですから、「いけない」ことを「いけない」というだけでも、十分意味があるはずです。「いけない」ことが分かり、どこが「いけない」のか指摘出来る、それも生半可なことでは務まらない役回りです。けれどもこういう初歩的なことが、本文校訂と同じくらい軽視されているのです。そのためしばしば「いけない」説に対して無理矢理「よい」説を提示するようなことにもなる。「いけない」ことに気付いても対案がないと「論文」にならないのですから。――「いけない」説を気持ち良いくらい批判する書出しで、問題点に突っ込みを入れて「いけない」ところを数え上げている間はきちんとしていたのが、突然結末に怪しげな文学理論を援用した自説を提示して、無理矢理「論文」らしく仕立てた奇怪な代物に成り下がる。そんな、最後に破綻を来すようなものがいくつも出て来ます。そんなことをせずとも、従来の通説は「いけない」のだから、白紙に戻して考え直すべきだ、という主張で、取り敢えず十分だと思うのです。(以下続稿)