瑣事加減

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松本清張「西郷札」(1)

松本清張短編全集光文社文庫

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)

西郷札松本清張短編全集01)』2008年9月20日初版1刷発行・定価619円・317頁*1
 松本清張の短編は、この光文社文庫松本清張短編全集」で読み始めてしまったので、これで読んで行くことにする。
 1冊めの表題作の「西郷札」は松本氏の処女作で、巻頭5〜62頁に収録される。末尾に(「週刊朝日」春季増刊号 昭和二十六年三月)とある。
 語り手の「私」は九州の新聞社の、恐らく文化部員で、去年の春、つまり発表の前年昭和25年(1950)に企画され、秋に開催の「九州二千年文化史展」を、恐らく主任として準備している。この辺りは、朝日新聞社西部本社の広告部員であった松本氏の願望であろうか。
 その多くの出品資料の中に宮崎支局を通じての「宮崎県佐土原町、田中謙三氏」出品の「一、西郷札  二十点/一、覚 書  一 点」があった。ちなみにこれに「支局長のEが私に宛てた手紙」が添えてあったというので、私は「私」を展示の責任者クラスだと推測したのだけれども、「私」はこの「覚書」を「思わず夜を徹して読了」し「興奮に駆られてすぐ田中氏」に内容の発表について許可を得、会期終了後「田中氏に返す前」に「全部筆写」し、展示会場では観覧者たちに特に注意されていなかった、初めの方に「日向佐土原士族 樋村雄吾 誌す/ 明治十二年十二月」とある無題の「覚書」を、縮約し現代文に書き改めて発表する、というのが、この小説の額縁(7頁〜11頁13行め)で、章番号のない「前置き」(11頁15行め)部分である。以下の本筋は「十二」章に分かれている。

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 例によって、登場人物の年齢を手始めに、設定を確認してみたいのである。
 基準がはっきり示されているのは「一」章・13頁12〜13行め、「雄吾が二十一歳、季乃が十/六歳となった正月は、明治十年であった。」――この記述により、当時としては当然のことなのだけれども、年齢は数えで計算していることが明らかである。
 すなわち、明治10年(1877)に雄吾は二十一歳、そうすると安政四年(1857)生、義妹の季乃は文久二年(1862)生である。
 遡って確認してみよう。「一」章・12頁2行め「母の同藩の内/藤氏より来てつねといったが不幸雄吾が十一歳の時死去した」とあるのは、慶應三年(1867)、12頁5行め「雄吾が十二歳のとき御一新が行なわれ世は明治となり」とあるのは慶應四年=明治元年(1868)、12頁3行め、雄吾の父の「喜右衛門は彼が十六歳になるまで後添をめとらなかったので」とある十六歳は明治五年(1872)、そうすると、12頁5行め、明治維新「から四年たって突然断行された廃藩置県で父は世禄を失った」とあるが、廃藩置県は明治四年(1871)七月十四日、秩禄処分明治9年(1876)8月5日だから*2、これを明治五年(1872)とするのはおかしいのだが、しかし12頁10〜11行め「この年すすめる人があって、父喜右衛門は後妻を入れたが、これが雄吾の第二の母である。/この新しい母には連れ子があり、雄吾とは五つ違いの女の子で妹となるわけであった。」という記述と照らして、やはり松本氏は明治五年(1872)のことと設定しているようである。
 しかし、12頁14行め、「この母」は「士族の出ではない」のだが、これは13頁1〜2行め「あたかもこの年八月には華士族平民婚嫁許可令が出て/いた。新政府を嫌った喜右衛門が真っ先に新法令を実行した」ために、実現した12頁16行め「平等結婚」なのだが、この許可令は明治四年(1871)八月二十三日に出されている。これは廃藩置県と同年のことだから「この年」ではなく「前年」でないとおかしい。
 さて、継母は13頁4行め、明治五年(1872)に「三十五歳の容色は争えず」とあって、天保九年(1838)生である。父の喜右衛門の年齢だが、13頁3〜4行め「母は父の年齢に合わせてじみな身装をした/が」とあるので、後妻とは十歳以上離れていたように思われるが、明示されていない。
 明治10年(1877)2月、雄吾は西南戦争に参加すべく、病床の父と、継母に別れを告げて鹿児島に赴く。結局、負傷して可愛岳で脱落した雄吾は、日向延岡近在の素封家伊東甚平の家で養生し、「三」章・20頁2〜4行め「明治/十一年二月の末にやっと世話になった家を出て佐土原に帰った。まさに一年二カ月ぶりであ/る」。ところが20頁5〜6行め「父喜右衛門が去年六月に死去したこと、家が戦火に焼かれていたこと」が判明する。どこへやら避難したという継母と季乃の消息は分からない。諦めた雄吾は、田畑を処分して東京に出る。
 ここで父が明治10年(1877)6月に病没したことが分かるが、家が焼かれたのは父の没後らしいが、はっきり示されていない。官軍により佐土原が陥落したのは明治10年(1877)7月31日、「一」章・12頁7行め「収入の途が絶えた」父喜右衛門は、12頁7〜8行め「城/下を去る二里の土地に田野を求めて百姓となっ」ていた(但し、12頁9行め「自らは畑に立つことはなかった」)から、樋村家は官軍が入った佐土原の城下町に在ったわけではないが、その余波が及んで焼かれてしまったのであろう。(以下続稿)

*1:7月25日追記】3刷を見た。1刷との本体の異同は、奥付に「2009年5月20日   3刷発行」の1行が加わっていることと、巻末に8頁ある目録の1頁め、「松本清張短編全集 全11巻」の目録のうち、1刷では「★印は既刊」の★が附されているのが「01 西郷札」のみであったのが、3刷では「09 誤差」までとなっていることである。カバー裏表紙折返しにある横組みの「松本清張短編全集 全11巻 印は既刊」でも、同様である。この3刷発行日は、2012年9月13日付「松本清張「氷雨」(3)」で見た「09 誤差」の初版1刷発行日に同じ。【2016年5月3日追記】2刷を見た。1刷との本体の異同は、奥付に「2009年4月20日   2刷発行」の1行が加わっていることと、巻末に8頁ある目録の1頁め、「松本清張短編全集 全11巻」の目録のうち「★印は既刊」の★が附されているのが「08 遠くからの声」までとなっていることである。カバー裏表紙折返しにある横組みの「松本清張短編全集 全11巻 印は既刊」は1刷と同じらしく「01 西郷札」にのみが附されている。

*2:引用でない場合、太陰暦は漢数字で、太陽暦は算用数字で示す。