瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(17)

 岩佐東一郎『くりくり坊主』には、赤マントについての記述がもう1箇所あります。と云って、まだ途中までしか読んでいないので他にもあるかも知れませんが、新聞記事の紹介に移る前に、これを見て置きましょう。
 59番め、221頁8行め〜224頁(11行め)に掲載される「幸運の手紙」という題の文章で、書出しは次のようになっています。どうもおかしいところがありますが、初出と対照して確認することが出来ていないので、そのままにしてあります。

 この春には、東京市内外に「赤いマントの傴僂男」と云ふ愚劣極まる流言蜚語が蔓延して遂に/【221頁】は警視廳が乘り出して取締るやら、ラヂヲを以て警告するやら戰時下の文明都市の市民として恥/ずべき事件があつて、全く苦々しい思ひをさせられたのであつた。かかる妄言は、云ひ出す者は/もとより怪しからん次第であるが、かりそめにも、昭和十四年現在の都會人がこのやうな蜚語を/取りあげて流布すると云ふことの方が、もつと下らないことであつた。たとひ、耳にしても一笑/して採りあげなかつたら、それだけの話で消失して了ふのだ。
 所が、最近はまたしても以前に流行つた「幸運の手紙」と云ふのが、ぶり返して來たと見へて/この取締りに警視廳が乘り出したと新聞で讀んだ。さうでなくても多忙な警視廳に「赤いマン/ト」と云ひ「幸福の手紙」と云ひ、愚劣な些末事まで取締らればならぬとは、ほとほと呆れた都/會人たちではある。だから、「中元、歳暮の廢止」だの「享樂の禁止」だの「泥醉者取締り」だの/と、子供にも聞かせられぬやうな制限を受けるのも、無理はないと思ふやうになつた。


 前回、当局の対応に効果があったかのように読めるのは、その結果を見て書いているのではなく、まさに進行中の事態について希望的観測を書いたからだろう、と書きました。確かに「赤いマント」についてはその面が強かったと思いますが、『くりくり坊主』を読み進めるに、愚昧な大衆の姿を嘆き、戦時下にあってこの体たらくでは御上の規制を受くるも止むなし、という位置に岩佐氏はあるのでした。穏健な保守派、と云ったところでしょうか、日米開戦前夜で庶民生活にもさまざまな規制が行われつつあるのですが、それを受け容れつつ、それに合う気の持ち様を提案する、そんな風に読めるのです。
 さて、「幸運の手紙」は「幸福の手紙」或いはその裏返しの「不幸の手紙」の場合もある、アレです。私は『ドラえもん』で知りました。実際にもらったことがあったかどうか。送ったことはないはずです。「棒の手紙」となって流布しているという新聞記事も、読みました。「幸運の手紙」「幸福の手紙」「不幸の手紙」こそ、大正末年から現代まで度々流行を見、「赤マント」どころでなく論文や評論に採り上げられ、小説等にも使用されていますから、とてもではないですが今の私の手には負えません。岩佐氏の見た新聞記事も探さないで置きます。ここでは岩佐氏がこのような文章を、昭和14年(1939)に書いていることを紹介するまでにして、内容については触れないで置きます。青空文庫には宮本百合子(1899.2.13〜1951.1.21)の「幸運の手紙のよりどころ」が収録されていますが、初出は「日本学芸新聞」昭和14年(1939)8月20日号とのことですので、岩佐氏のこの随筆も、いづれ同じ時期のものなのでしょう。
 岩佐氏は222頁12行めから223頁5行めまで、文面の恐らく大部分を引用していますが、ここには引きません。その上で、次のような感想を述べるのです。223頁8〜11行め、

 前の「赤マント」も主として婦女子間に流言されたさうだが、この「幸運の手紙」も主として/若い女性から女性へと流布されてゐるらしい。インテリ女性ともあらうものが。案外この樣な迷/信に溺れやすいとは、新しくは粧へど内心は古い女よ、と輕蔑したくなつて了ふ。もつとはつき/り云ふと、本當のインテリ女性なんて無いのかも知れない。


 ここでは「赤マント」は全く過去の出来事として回想されています。こんな噂が永らく命脈を保つ訳もなく、そう云えば口裂け女も何時しか終息していたのでしたが、北杜夫『楡家の人びと』に云うように「一過性の流言蜚語」に過ぎなかったのです。
 ところで、この記事に[怪異談]というタグを附してしまいました。確かに、吸血鬼――妖怪の一種なのでしょうから[怪異]には違いないのですが、当初広まった内容を見る限りでは、ただ出るというだけで、[談]にはなっていないのです。そして、世間からはこのまま消えて、流行期にさして意識せずに済んだ人の中には、「わたしの赤マント」の川端氏のように、全く記憶しない人も出てくる訳です。一方、これはどうやら極早い時期に発生していた《結合》らしいのですが、トイレの怪異談と結び付いて、余喘を保った「赤マント」もありました。……いえ、便所とは実は昭和14年(1939)の大流行以前から繋がっていたらしいのですけれども、それは以前予告したように中村希明説の紹介に際して述べることにして、今は暫く、昭和14年の一連の騒動を、追って行くことにしようと思っています。(以下続稿)