瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(41)

 今日は昨日の続きで「都新聞」昭和14年(1939)2月24日付の記事の内容について、確認して置きましょう。
 流言の担い手たる女学生の証言、ラジオニュースの内容、それから情報課長の見解も示された、新聞記事のうちでは最も充実した内容を持つものとして、特筆すべきものと思います。
 AKのラジオニュースの内容は11月19日付(29)に引いた「中央公論」4月号「東京だより」にも紹介されていましたが、この記事は放送内容そのままのようです。それとももっと何か色々言ったでしょうか。
 麹町區隼町は現在の千代田区隼町です。
 江副課長令嬢の長女の年齢ですが、これはもちろん数えで、満年齢は13歳、大正14年(1925)生です。「上野高女」は上野高等女學校(現在の上野学園中学校・高等学校)で「校長の石橋先生」は創立者の石橋藏五郎(1875〜1964)でしょうか。
 次女は学年が分からないので、満年齢も分かりませんが昭和4年(1929)生であることは間違いありません。昭和3年度であれば11月27日付(37)で見た粟津潔(1929.2.19〜2009.4.28)と同学年で4年生、昭和4年度であれば3年生です。
 長女の語っている内容のうち「出っ歯」と「頭に禿」は他の資料には見えませんが、流言に時期を同じくして直接取材して書かれた記事ですから信拠すべきものと位置付けられます。また「最初は北千住に出たって……」という発生場所について、新たな地名が持ち出されていることが注意されます。
 しかしながら、江副情報課長はやはり、これまでの記事に見えていたように、板橋著や瀧野川署に投書の多いことを指摘しています。
 流言の由来ですが、11月14日付(24)に引いた「報知新聞」の記事と同じく、ピストル強盗と板橋の変態少年が指摘されています。こうなるとピストル強盗についてももう少し調べて置かなくてはいけません。
 粟津氏は11月26日付(36)で見たように「黄金バット」を基にした赤マントを空想していたのでしたが、11月24日付(34)で見た大宅氏の「「赤マント」社會學」ではわざと間違えた形で、11月22日付(32)及び11月23日付(33)に引かれていた永野刑事部長の談話、それから10月30日付(09)で見た小沢信男「わたしの赤マント」では勘違いとして、「黄金バット」が持ち出されていたのでした。やはりこのような怪人がイメージされたもとには、子どもたちが見ていた紙芝居「黄金バット」の印象があるものと考える人が多かったようです。
 そして「古今未曾有」という表現から、11月25日付(35)で見た大宅氏の関東大震災のときの「朝鮮人暴動」に匹敵する、とする見解も大袈裟だとは言い切れないように思えます。「朝鮮人暴動」デマは朝鮮人虐殺に繋がったために今でも様々に議論がありますが、赤マントは平和(?)に収まってしまったので、殆ど忘れ去られてしまった訳です。
 ちょっとおかしいのは情報課長自らが後に10月29日付(08)で見たように「わたしの赤マント」の主人公・牧野次郎が深く共感していた、10月25日付(04)に引いた加太氏の見解と同じような分析、「重苦しい不安なような社会情勢下」との発言を、既にその当時にしていることです。(以下続稿)