瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(52)

 ところで、文庫版「あとがき」228頁6〜7行めに「‥‥たのしく連載の/一章ごとをつづけていった。‥‥」とあって、本書が雑誌連載をもとにしていることが察せられるのですが、何に連載したのか示されていません。新書版「あとがき」を見るに205頁14行め〜206頁1行めに「‥‥、「本」に連載中、木村妙子さんがお世話くださって、そのせいか、/きわめて順調に仕上がった。‥‥」とあります。初出は講談社のPR誌「本」で、平成2年(1990)1月から12月までの1年間連載されたもののようです。まだ確認していませんが。
 それでは池内紀『悪魔の話』に見える赤マントの記述を確認して見ましょう。「1―サタン紳士録」の冒頭、新書版8頁2行め〜9頁(15行め)、文庫版11頁2行め〜12頁11行め、前者の行移りは「/」で、後者のそれは「|」で示しました。 

夕方、ひとけない通りで*1
 昭和十五年(一九四〇年)*2一月、東京の下町にデマが流れた。赤マントをつけた人|さらいが/出没して子どもをさらっていく。少女に暴行して殺すというのだ。
 デマは口づたえに伝えられ、たちまち東京中にひろがった。やがて横浜から西に移|り、/大阪にまで達したらしい。子どもも親もふるえあがった。学校の往き帰りに親た|ちが代わ/りあって護衛をする。広場や辻で遊ぶ子どもの姿がパッタリ消えた。夕方、|ひとけない通/りにさしかかると足がすくんだ。目をつむるようにして駆け抜ける。お|りしも女子トイレ/【新書版8頁】をのぞいていたあやしい人物が逮捕された。もっとも、それは赤マ|ントではなく黒いボロ/服の男だったのだけれど。
 世にいう「赤マント事件」である。加太こうじの『紙芝居昭和史』によると、デマ|のお/かげでその夏、大阪の警察に紙芝居の「赤マント」が押収されて焼却のうきめを|みた。今/後、このような紙芝居を作るなと注意されたという。それというのも東京の|谷中墓地に近/【文庫版11頁】いあたりで少女が暴行されて殺される事件があった。そのとき、近所で|加太こうじ作の紙/芝居をやっていた。赤マントの魔法使いが靴磨きの少年をさらって|いって魔法使いの弟子/にするというストーリィ。もともとは芥川龍之介の『杜子春』|を換骨奪胎したもので*3、い/たってまじめな、教育的な作品だった。『杜子春*4に出て|くる仙人が赤マント、杜子春が貧/しい靴磨きの少年というわけである。その魔法使い|が赤マントを着ていることが、現実の/少女暴行事件と結びついてデマの発生になった|らしい。
「紙芝居の絵は東京で使うと横浜から東海道の主要都市を経て大阪へいく。その絵が|移動/する順路と時間が、赤マントの人さらいのデマが流布*5する順路と時間にうまく一|致してい/た」
 それでてっきり、この紙芝居がデマの張本人とされたらしい。


 この節は大体、『紙芝居昭和史』の、10月25日付(04)に引いた辺りをそのまま、若干簡略化して使用しています。その際に、何故か「大阪にまで達したらしい」などと曖昧な書き方をしています。私はどうも、こういう随筆独特の、朧化する必要の全くないところを曖昧にする書き方が苦手です。それはともかく、この短い中にも違っているところはあって、紙芝居の「赤マント」と題名のように書いているところの他にも、外で遊ぶ子供が夕方でなくてもいなくなってしまった、という状況が現出したように書いていますが、今のところ私はその根拠となるような記述を他に見出していません。池内氏は奥付にある略歴に「1940年、兵庫県姫路市生まれ。‥‥」とありますので、その辺りの話を伝え聞いたのでしょうか。デマは全く同じ内容で広まるのではなく、時間差と地域差、そして個人差が生じますので、出来れば場所と時期、自身の体験でないのなら情報源を示して欲しいのです。女子トイレを覗いていた黒いボロ服の男逮捕というのも同様で、もし分かるようでしたら何時・何処でなのか、示してもらわないことには、いよいよ当時の状況をつかみにくくなります。――日暮里の少女暴行殺人のように示されていても一向分からないこともありますが。加太氏のmisleadが赤マントを探求しようとする人々にどれだけ悪影響を及ぼしたかは改めて論じることとしましょう。
 池内氏は次の節で、赤マントについての見解を示しています。(以下続稿)

*1:文庫版は1字下げ。

*2:文庫版は括弧全角。

*3:ルビ「とししゆん・かんこつだつたい」。

*4:新書版は二重鍵括弧半角。

*5:文庫版のみルビ「るふ」。