瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(59)

 ここで話を12月17日付(57)に戻します。
 まず、昭和14年(1939)2月に小学校中学年・低学年だった男子の回想に、当時は強調されていた「吸血セムシ男」という属性が欠落して、黄金バット怪人二十面相等の「マントの怪人」の側面が強調されていることについてですが、これは、種村氏の回想に、種村氏の年齢を加味して考えるに、「吸血セムシ男」の赤マントの大流行が終息して後、なお児童間に生き残り時に蒸し返された赤マントは、文字通り「赤マント」にこそ特徴のある怪人になっていて、「吸血セムシ男」という外形は保持されなかったのではないか、と思われるのです。
 すなわち、粟津氏も加藤氏も北川氏も、初めは「吸血セムシ男」の噂を聞き、恐らく小学校の先生からもそのような訓示を受けていたはずなのですが、彼等の心に生き残った赤マントはそのような外形の不気味な存在ではなく、如何にも身軽にマントを翻らせる「マントの怪人」となっていたのだろう、などと考えてみるのです。
 当時小学生でなかった種村氏は、もとより「吸血セムシ男」を知りません。便所での変態的な所行に僅かに痕跡を止めるのみでした。寺の境内に出没する赤マントはともかく、女学校の便所で「赤い紙」か「青い紙」を勧める赤マントは、赤マントを着用している姿を見せたのでしょうか。「赤いマント」を勧める訳でもないのです。便壺の中にいるのなら、赤マントを着る必要もないでしょう。――どうしてこんな風になってしまったのか、とにかく大流行から数年以内に、赤マントはそんな風な奇怪な展開を見せていたのです。
 この点は、種村氏と同学年の回想をもう1つ紹介した上で(但し小説なのですが)再説することにしましょう。

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 それから、八本氏の「赤マントの噂がひろがったのは、昭和十一年の阿部定事件の直後」との記述ですが、何かそのような説を立てている本があるのかも知れません。というのも、この八本氏の記述よりも後に、同様の記述をしてさらに踏み込んで阿部定事件が赤マントに影響しているかのように書いた本があるのです。
唐沢俊一『スコ怖スポット 東京日帰り旅行ガイド』2011年7月2日初版第1刷発行・定価1,200円・ごま書房新社・163頁・四六判並製本

スコ怖スポット―東京日帰り旅行ガイド

スコ怖スポット―東京日帰り旅行ガイド

 この本がどのような本で、どんなふうに「東京日帰り旅行ガイド」に折り込まれているかは、次回確認することとしましょう。(以下続稿)