瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(65)

 今日も12月22日付(62)からの中島公子『My Lost Childhood』所収「坂と赤マント」の検討を続けます。
 昭和14年(1939)4月に小学校に入学した弘子たちは、自分たちの入学する直前にも「赤マント」の訓示があったことを知りません。
 それでは次に、6頁15行め〜7頁7行め、訓示のあった理由について述べた箇所を抜いてみましょう。

「赤マント」というのは、当時東京の小学生たちのあいだに恐怖をばらまいていた噂の主人公/だった。子供をつかまえて理由もなく死に至らしめる通り魔のことであった。むろんその噂は/【6頁】弘子や那奈ちゃんのクラスにも、弘子が学校を休むずっと以前にとどいていた。彼女らの学校/にこの通り魔の犠牲になったものはいなかったが、親戚の子や近所の遊び仲間から耳ざとく情/報を仕入れてくる者はいくらでもいたから、犯行の模様などもまことしやかに伝えられていた。
 だいいちそれをなぞって子供たちの間では「赤マント遊び」が大流行していた。朝礼の訓示/で子供の世界の流行が問題にされるのはめずらしいことだが、当時「赤マント」は新聞だねに/なった。道ばたに蒼白になって倒れている子供があちこちで発見され、「赤マント遊び」は社/会問題となっていたのである。訓示はその新聞記事に触発されたのであろう。


 昭和16年(1941)にも新聞に出ていたことになりますが、まだ記事の探索を試みておりません。
 子供を襲う通り魔というのは昭和14年2月の噂に重なるところがありますが、社会問題になる程「赤マント遊び」が流行していたというのは、本書で初めて知りました。
 但し小説なので、本当にこの通りであったのか、不安があります。12月17日付(57)で見た同学年の種村氏の回想からして、昭和14年度以降にも赤マントの噂が蒸し返されていたのは確かなのですが、「赤マント遊び」についてはこの小説だけでなく、何か傍証が欲しいところです。今のところ他に「赤マント遊び」の回想は目にしていません。12月21日付(61)に引いた、娘の中島京子『小さいおうち』は、時期は母の小説に従っているのですが、内容については便所で問い掛けられることになっていて、屋外で襲われるという母のいう赤マントとは異なっております。
 それでは続き、7頁8行め〜8頁11行め、赤マント及び赤マント遊びについて具体的に述べた箇所を抜いて見ましょう。

 夕方、一人歩きの子供のまえに、黒いマント姿の男があらわれる(「赤マント」のマントは/黒いのである)。男はただ立っているだけだが、子供は足がすくんで逃げることができない。/全身が痺れ、息をするのがようやっとだ……。
「男」がたずねる――赤マントがいいか、青マントがいいか?
 できるだけ早く、はっきりと、「青マント!」と答えなくてはならない。「青マント」と答え/れば、子供はその場に失神して倒れるだけですむ。が、「赤マント」と答えたら、あるいは黙/っていたら、子供はあとで血まみれになって発見される。男は殺人鬼なのである。
 どういうわけか、狙われるのはすべて男の子であった。当然「赤マント遊び」も男の子のあ/いだに流行した。いや「遊び」なんていってはいけない。それは練習なのだ。子供たちは本物/【7頁】のマントの男が目のまえにあらわれたときあがらず大声で「青マント!」とどなることができ/るよう、箪笥からお父さんの二重まわしや兄さんのマントをひっぱりだし、空地にあつまって/は、かわりばんこに「赤マント」になって練習にはげんだ。*1
 そのせいか、鮮血にまみれて発見された被害者はほとんどいなかった。道ばたに目をまわし/てひっくりかえっている子供は、倒れるまえ、「青マント!」と絶叫したことをのちに誇らし/げに報告したものだった。
 この種の、文字どおり「子供だまし」のこわーい話というものはいつの時代にも子供の世界/を横行している。だが社会問題化するほどに流行したのは、あの時代、あの時期だけのことだ/ったのではないか。どんな原因がかさなったのか知らないが、今にしてふりかえってみると、/それは日本が米英を相手に戦端をひらくまえの、重苦しく沈滞してなにかしら血なまぐさいも/のを求める当時の世相をどこか映しだしていたもののような気がする。


 中島京子『小さいおうち』が昭和16年(1941)に赤マントを位置させた理由はここまで引けば明らかでしょう。実際に体験した母親が「社会問題化するほどに流行したのは」このときだけだったというのですから、こんなに間違いのない証言はありません。しかしながら、個人の体験というのが実は限定的なもので、しかしそれをしばしば全体が見通せているかの如く思い込み勝ちである、という点を見落としているように思えます。尤も、私がこんな批評が出来るのは、こんな馬鹿げた騒動について一応見通しが付くくらいに調べるくらいに暇だったからで、偉そうに言えたものではないのですけれども。
 それはともかく、ここに引いたデマ発生の原因は10月29日付(08)で小沢氏も賛意を示していた、10月25日付(04)で見た加太氏の説に、符合しております。
 ところで「あの時代、あの時期だけ」というのは、その後の口裂け女を知っている私たちには奇妙な感じを与えますが、実は本作が同人誌に発表された昭和54年(1979)3月に口裂け女は伝播しつつあったので、恐らく執筆時点では中島氏の注意を引くに至っていなかったのでしょう。それはともかく、恐らく、初めて赤マントのデマを主題に据えた小説が、口裂け女の流行時に発表された暗合が、何だか興味深く思われます。が、別に、何だか尤もらしい、気の利いたコメントをしようとかいう気は、ありません。(以下続稿)

*1:「あがらず」と「かわりばんこ」に傍点「ヽ」。