瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(70)

 今度は実際に体験した人の回想で、昭和14年(1939)と明確に述べた平成元年(1989)の文献を挙げて置きましょう。ちなみに今日取り上げる本と昨日の『大衆文化事典』は、図書館の書棚を巡っていて見付けたので、ネット上にはこれまでこれらの本に赤マントが出ていることは報告されていないようです。
・歴史博物館シリーズ河出書房新社)B5判上製本
山中恒『[図説]戦争の中の子どもたち――昭和少国民文庫コレクション』一九八九年八月一日初版印刷・一九八九年八月一四日初版発行・定価一、八四五円・106頁
 私は児童読物を、夏休みの課題図書では読みましたが、子供騙しだと反撥する気持ちだけはあって、けれども大人向けの本が分かったのかというと甚だ疑問なのですが、とにかく気位だけは高かったので、残念ながら殆ど読まずに来てしまいました。地元の傳説を調べるのでも、子供向けの本は馬鹿にして、戦前の本字歴史的仮名遣いの本をわざわざ書庫から出してもらって、いっちょ前の気分でいたのですから、今から思うと誠に滑稽です。――そんな訳で山中恒(1931.7.20生)の本も読んでいないのです。
 昭和少国民文庫というのは山中氏が『ボクラ少国民』シリーズ以降、戦時下の教育・生活について執筆するに際して、資料的な裏付けをとるために蒐集した戦時下の出版物・文書類に仮に与えた名称であると「一九八九年六月三〇日」付の、104頁「あとがき」に説明されています。106頁「資料掲載・編集協力者一覧(順不同・敬称略)」を見るに掲載されているのは山中氏の所蔵資料に限らないようですが、こうした積重ねが『間違いだらけの少年H』に結実しているのでしょう。

間違いだらけの少年H―銃後生活史の研究と手引き

間違いだらけの少年H―銃後生活史の研究と手引き

 私は『少年H』は読まずむしろ『間違いだらけの少年H』に惹かれたのですが、大部であることに恐れをなして読んでいません。なお、この「あとがき」の一部(上段16行め〜下段12行め)は、カバー表紙折返しに「「昭和少国民文庫」コレクションと私」と題して引用されています。
 まず「目次」が2頁(頁付なし前付)あって、1〜8頁(頁付なし)カラー口絵、以下5章に当時の子どもを巡る状況が、山中氏個人的回想を絡めながら説明されて行きます。各章は①〜⑤の5節に分かれています。頁付は3桁ですが3桁め「0」は省略します。扉には頁付がありません。
 第一章●「十五年戦争」の開始 子ども文化の動員(9〜28頁)、第二章●学校が変わっていく 国民学校の誕生(29〜50頁)、第三章●内地・外地・占領地の子どもたち(51〜68頁)、第四章●撃ちてし止まむ 百年戦争疎開・空襲(69〜84頁)、第五章●ギブミー・チョコレート 敗戦とアメリカ兵の姿(85〜100頁)。
 国民学校昭和16年度からですので、赤マントは第一章に出ているはずです。25〜28頁「⑤紀元は二千六百年――空前のセレモニー」の前がちょうど21〜24頁「④あこがれのヒーローたち――黄金バット・軍神・双葉山」となっています。この節はさらに「赤マント出現」と「双葉山の連勝ストップ」に分かれていますが、前者、21頁下段及び23頁上段15行めを抜いて置きましょう。なお「③兵隊さんの足音が聞こえる――日中戦争の勃発」及び101〜103頁「年表●昭和改元から敗戦まで」を見るに、昭和6年(1931)7月20日北海道小樽市に山中勝次・フサエ夫妻の長男として生れた山中氏は、昭和13年(1938)4月に「北海道小樽市稲穂尋常小学校(現在の市立稲穂小学校)に入学し」ていますが、「駅前で看板店をやっていた父」は、息子のために一級品の学用品を揃えています。

赤マント出現
 私が小学校へ入学してまもなく、父は自/分の目で戦争を確かめてみたいと、自費で、/単身、華北へ出かけて行った。現地でなに/があったのか詳しいことは不明だが、突然、/小樽の看板店を弟子にゆずり、北京で看板/店をやるといいだし、その年の暮れ、中国/へ行ってしまった。残された母は、これも/理由がよくわからないのだが、雪の無い湘/南の地へ転居するといいだし、私たち一家/は、翌一九三九年三月、神奈川県平塚市へ/転居した。*1
 そのとき、平塚は東京から東海道線で一/時間半ばかりなので、東京みたいなものだ/ときかされていた。だから、そこの小学生/たちは、「幼年倶楽部」や「少年倶楽部」の/表紙に出て来るような、お坊ちゃん、お嬢/さんたちなのだろうと想像していた。
 たまたま平塚市第二尋常小学校(現在の/市立港小学校)へ転校手続きにいったとき、/講堂で学芸会をやっており、そこから、合/唱の声が聞こえて来た。その歌が、『おじさ/んありがとう(傷病の勇士に捧ぐ)』(土/岐善麿作詞・中山晋平作曲)という歌であ/った。それは、私が初めて聞く歌だったの/で、ここの学校は進んでるぞと怯えにも似*2/【以上21頁、22頁図版のみ、以下23頁】たものを感じた。
 しかし実際に転校して彼らに接してみる/と、まさにローカリティーの強い漁師町の/子どもたちだったので、私は安堵と共に落/胆もした。正直なところ、彼らと話題がか/みあわなかった。彼らにとってのヒーロー/は、国定忠治清水次郎長・荒木又右衛門・/丹下左膳であった。なかには浪曲師広沢虎/造の『(森の)石松代参』を一席唸るタレン/トもいた。圧倒的人気者は当時のヒット紙/芝居の『黄金バット』であった。*3
 その頃、学校でも、便所に赤マントが出/て、女の子をさらうなどという流言があっ/た。内務省の「特高月報」にも、流言蜚語/として、これが登場する。*4


 『黄金バット』の図版は収録されていないようです。
 「特高月報」は先日ざっと見たのですが時間がなくて赤マントの記述は見付けられませんでした。年明けの課題としましょう。昭和14年2月の新聞記事を見ても警察が取締に動いているので、その辺りを当たれば他にも見付けられるだろうと思っています。
 さて、山中氏が転校したのは3月の前半なのか後半なのか、1年生ではありますが転校先で先づ接した流言であったので記憶に残ったのでしょう。或いは「特高月報」を見て(小沢氏が「わたしの赤マント」を、大宅壮一「「赤マント」社会学」を見て後に騒ぎのあった時期を書き換えたように)、補正したのかも知れませんが。
 注意されるのは、女の子をさらうということと、便所に出るという点です。12月20日付(60)に、便所に出るのと夕方路上に出るのと、どちらが先か判定出来ないと書きましたが、この山中氏の回想も、やはり早い時期に便所に定着していた例のようでもあり、或いは昭和14年の騒ぎが収まって後に、学校の便所に生き延びたものと記憶が混淆した疑いも一応考慮に入れるべきかと思ったりも、するのです。
 その後、山中氏は昭和19年(1944)3月に、平塚第二国民学校初等科を卒業します。東京で騒ぎが拡大していた昭和14年2月のことを承知していないのは残念ですが、東京近郊の町に少し遅れて伝わった内容を窺わせる資料として、貴重なものと位置づけられるでしょう。(以下続稿)

*1:ルビ「かほく・ペキン・しようなん・ひらつかし」。

*2:ルビ「しようびよう・ときぜんまろ・なかやましんぺい・おび」。

*3:ルビ「りようしまち・あんど・らくたん・くにさだちゆうじ・しみずのじろちよう・あらきまたえもん・たんげさぜん・ろうきよくしひろさわとらぞう・いしまつだいさん・いつせきうな・かみしばい・おうごん」。

*4:ルビ「りゆうげん・ないむしよう・とつこうげつぽう・ひご」。