瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(77)

・中村希明『怪談の心理学』(5)
 それでは、「「赤マント・青マント」の恐怖」の節に述べられている、中村氏の体験を見て置きましょう。28頁10行め〜29頁7行め、

 筆者は戦時色の強くなってきた昭和十四年に、当時(日本の韓国併合により)京城と呼ばれ/ていたソウル市の小学校に入学した。だが、そこには――
 学校のトイレにしゃがみ込むと天井あたりから「赤いマントがいいか、青いマントがい/いか」と問いかける声がする。つりこまれてうっかり「赤いマントがいい」と返事をする/と、とたんに天井から赤いマントがふってきて、それにくるまれて朱に染まって殺される。/「青いマントがいい」と答えた方は青マントにくるまれて、血を抜かれて真っ青になってこ/と切れるという「赤マントと青マントの怪人」が跳梁*1していた。
 小用をたすためにも、赤マントがひそんでいるかも知れない閉鎖的空間に入室しなけれ/ばならぬ小学校低学年の女子生徒の恐怖は切実であった。どうしてもトイレに入れず授業/中におもらしする子や、先生につき添ってもらってトイレに行く生徒もでたものである。
 男の子といえども、お腹のぐあいが悪くて閉鎖性構造の「大便所」に入らねばならぬと/きは大変であった。お盆興行の「化け猫」の看板すらさけて通った臆病な筆者などは、当/時、家のトイレに行くにも大変な勇気を要した想い出がある。


 ここで、1月3日付(73)の最後に予告した、時期の問題を片付けて起きます。――昭和7年(1932)生で昭和14年(1939)に小学校入学とすると、中村氏は2013年12月18日付(58)で見た種村季弘(1933.3.21〜2004.8.29)や、2013年12月24日付(64)で見た中島公子(1932.11.24生)と同学年ということになります。しかしながら、そうすると1月3日付(73)に引いた「あとがき」にあった「終戦当時には旧制中学の二年生だった筆者」と齟齬するのです。種村氏は昭和20年(1945)4月に旧制中学に入学しています。中村氏が昭和20年度に旧制中学二年生だとするなら、種村氏より1学年上という計算になります。そして、どうもその方が正しいらしいのです。中村氏の生年月日ですが、「weblio」英和和英での「中村希明」の検索結果のみがヒットします。

中村希明  なかむらまれあき  (個人名) Nakamura Mareaki (1932.3.16-) 


 そうすると、中村氏が小学校に入学したのは、事情のない限り昭和13年(1938)4月ということになります。2013年12月30日付(70)で見た山中恒(1931.7.20生)と同学年です。もし、2013年12月21日付(61)で見た中島京子『小さいおうち』の「ぼっちゃん」のように、何らかの事情があって入学を1年遅らせて昭和14年(1939)に入学することになって、その上で飛び級で小学校を5年で卒業して(入学を遅らせた分を取り戻して)昭和19年(1944)に旧制中学に入学していたとか、そんな可能性も考えられなくはないですが、それなら特に断って置くだろうと思うのです。ですからこれは、記憶違いか計算違いと判断して置くべきでしょう。
 ここまで資料を吟味して見て、どうも、こういった辺りの整合性に不安のあるものが、これは赤マントの回想に限ったことではないのですが、少なくない気がします。編集者は、昔の記憶には誤りがないと思い込んでいるのでしょうか。本人の自己申告を素直に信じるのではなく、検算が必要だと思うのです。この中村氏の記憶違いも、本人に確かめる術のない今となっては、あやふやなところを含んだままにして置くよりないのですから。(以下続稿)

*1:ルビ「ちようりよう」。