瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(82)

松谷みよ子『現代民話考』の赤マント(4)
 次に5例め(単行本単行本95頁3〜14行め・文庫版114頁3〜16行め)を見て置きます。引用の要領は前回までに同じ。

○長野県南安曇*1豊科町豊科小学校。昭和六年入学、十二年卒業。五年生の頃の話。|学校のお便/所に入ろうとするとマントを着た男の人がいて、「赤いマントがほしい|か、青いマントがほし/いか」と聞く。「赤いマントがほしい」と答えると、ナイフ|で刺され、真赤な血に染まって死/に、「青いマントがほしい」と答えると、体中の|血を吸われ真っ青になって死ぬという。
  回答者・塩原恒子(長野県在住)


 塩原恒子(1925生)については、次の著書の奥付に略歴があり、Amazon詳細ページのなか見!検索にて閲覧出来ます。

詩集 微笑仏

詩集 微笑仏

 旧姓藤森、大正14年(1925)長野県南安曇郡豊科町(現・安曇野市)生、昭和6年(1931)4月に小学校入学で昭和12年(1937)3月卒業というのですから、大正13年度の生れです。注目すべきはこの話のあった時期で、塩原氏が「五年生」であったのは昭和10年度、記憶に間違いがないとすれば昭和14年(1939)2月の東京に先行する地方の例となるのです。
 尤も、安心して根拠として使用するには、同時代の記録か、同じ時期とする回想が傍証として欲しいところですが、今のところ得られないので、そのまま信じて良いのか、また、どの程度の広がりを想定するべきか、等、不安はありますが、しばらく塩原氏の記述に従って置くこととします。そうすると、昭和10年度の小学5年生の頃の聞いた、現在も行われている赤マントに近い、学校の便所での問掛けと、答えに拠って殺害方法が異なる、という話の方が、東京の吸血セムシ男に先行することになるのです。但し「マントを着た男の人」であって、男の着用しているマントに色の指定はなく、従って「赤マント」などの呼称も特にないようです。問掛けに対する、それぞれの答えの結末は現行のものと変わりません。
 さて、赤マントについては、夕方、路上に出没する人攫い・吸血鬼の赤マントが先行して、その後、学校の便所に定着したという風に、従来捉えられて来たようです。しかし実際には、人攫いの赤マントは、学校の便所で「赤マントが欲しいか」と聞く男の噂よりも3年は遅れて昭和14年(1939)2月に東京で流行し、それから大阪など地方に伝播したのでした。それ以前に同様の騒ぎのあったことは、当時の新聞報道を見ても全く注意されていません。すなわち、もしあったとしても、昭和14年のように警察や学校・新聞・放送局などを巻き込むようなものではなく、一部で密かに語られるに止まるようなものだったのでしょう。特定の(しかも地方の)学校の便所に出没する赤マントのことなど、尚更ニュースになどなりようがありません。その局地的な例が、かろうじて記録に止められたのだ、という風に、塩原氏の報告は位置付けられるのではないか、と思われる訳です。――既にほぼ型の完成した便所の赤マントが存在していたからこそ、路上の赤マントは早くから暗くて狭苦しい便所に入り込み、そのまま、昭和14年に東京全市を恐怖に陥れた残像も何処かに止めつつ、学校の便所の妖怪として広く流布・定着して行ったのではないでしょうか。……確証はありません。単なる思い付きです。傍証の得られるまで、仮説に止まるでしょう。否定すべきかも知れません。
 勿論、これまで何人かについて指摘したように、記憶違いの可能性もあります。ところで塩原氏の報告は他に2話載っていて、いづれも「○長野県南安曇郡豊科町豊科小学校。昭和六年入学、十二年卒業。五年生の頃の話。‥‥」という書出しになっています。同じアンケート葉書に記入してあったのでしょう。その2つともが「便所にまつわる怪」で、単行本77頁2行め〜82頁5行め「一 あかずの便所」(11話)の81頁15〜17行め=文庫版93頁6行め〜99頁12行め「あかずの便所」(12話)の98頁11〜14行め(ともに「分布」の9番め)と、「三 白い手・赤い手」91頁4〜7行め、文庫版「白い手・赤い手」109頁10〜13行め(ともに「分布」の13番め)に掲載されています。
 以上、単行本の『現代民話考』にあった赤マントとマントの怪しい人物の登場する話について一通り眺めて見ました。これが以後の赤マントを論じる際の、典拠のような位置付けをされることになる訳です。(以下続稿)

*1:ルビ「みなみあずみ」。