瑣事加減

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赤いマント(84)

小沢信男「わたしの赤マント」校異(1)
 ブログ「スナーク森」のすずしろ氏からもらった2013年11月19日付(29)へのコメントについては、2013年11月20日付(30)にも触れましたが、その後、なかなか初出誌「文藝」を閲覧しに行く余裕を得ません。
 そこで、差当り2013年11月21日付(31)にて見た、日本文芸家協会 編『文学1983』に収録されたものと比較して置こうと思った次第です。
 但し『東京百景』はどこの図書館にもあるという本ではないようなので、最近「わたしの赤マント」を収録した次の本も参照して置きます。
・コレクション 戦争と文学 14 女性たちの戦争(二千十二年一月一〇日第一刷発行・定価3600円・集英社・697頁)

女性たちの戦争―命 (コレクション 戦争×文学 14)

女性たちの戦争―命 (コレクション 戦争×文学 14)

 成田龍一川村湊「解説 非戦闘者にとってのアジア太平洋戦争」は661〜668頁(成田)669〜674頁(川村)の分担で、661〜662頁「はじめに」に構成が説明されており、「女性の作者」による「女性と戦争のかかわり方を描いた作品」の「戦時に書かれた作品」が13〜99頁〈Ⅰ〉、「戦後になってから描かれた作品」が101〜310頁〈Ⅱ〉に、311〜563頁〈Ⅲ〉は「子供」、565〜660頁〈Ⅳ〉は「外国人を主題とした作品を収録し」ており、「わたしの赤マント」は「Ⅲ」に10人12題集められたうちの9人め、527〜548頁に収録されています。1頁17行、1行43字。
 「解説」は、成田氏執筆の663〜664頁「1」665〜668頁「2」はローマ数字に対応していますが、川村氏執筆の669〜671頁5行め「3」671頁6行め〜674頁「4」は対応させていません。「わたしの赤マント」については「4」のうち、673頁3〜7行めに以下のように解説されています。

 思春期と戦争あるいは敗戦が結びついた世代がいる。異性への憧れと、闇雲な性の衝動、それを赤マント/という都市伝説の探求という形で示したのが、小沢信男の「わたしの赤マント」である。夜の公衆トイレに/潜んでいる、女性の生理の血を吸うという赤マントの伝説。もちろん、それはまともな性教育も、先輩たち/から伝わる実践的な性の手ほどきもない時代の、奇怪に歪んだ性の妄想にしか過ぎないのだが、別の意味で/は、それは懐かしく、同世代性を強固に確認し合う秘密事にほかならなかった。‥‥*1


 この小説に出て来る連中の記憶も「強固に」という程ではなかったので、全体に、そうも言えるかな、という印象なのですけど「異性への憧れ」について述べた箇所は検討しませんでしたし、そこには余り突っ込まないで置きます。683〜688頁「収録作品について」は「初出及び主な収録本、太字は底本を示す」といったものですが、687頁上段2〜8行め、

わたしの赤マント小沢信男
初出
 「文藝」 一九八二年八月号
収録本
 「文学1983」 一九八三年四月 講談社
 「東京百景一九八九年六月 河出書房新社
 「日本怪談集 上」 一九八九年八月 河出文庫


 ちなみに689頁「資料」の扉には「年表」としか書いていなくて、690〜694頁「年表」は末尾に「年表作成/大久保由理」とあるのですが、昭和11年(1936)2月19日から昭和20年(1945)10月2日までが詳しく、昭和26年(1951)9月8日が最後ですが「赤マント」の流行については何ともしてありません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 異同は番号を打って、改稿前→改稿後を示しました*2。改稿後の「 」の前にある頁・行は『東京百景』、後にある頁・段・行は『コレクション 戦争×文学』のもので、前者の改行位置が「/」後者のそれを「|」で示しました。『コレクション 戦争×文学』は振仮名が増やされ、また『東京百景』は投書の末尾の( )が一回り小さい活字になっているのですが、『文学1983』と『コレクション 戦争×文学』では同じ大きさです。
・【1】158下5「思い出し」→13頁3「思いだし」528頁7
・【2】158下7「但し、」→13頁4「ただし、」528頁8
・【3】158下9〜10「いうなら容/貌ばかり」→13頁5〜6「容貌ば/かり」528頁10
・【4】158下11「赤マントは、どうやら問答無用で」→13頁6「赤|マントは問答無用で」528頁10〜11
・【5】158下13「関する」→13頁7「かんする」528頁12
・【6】159上2「それから、お気づきの」→13頁10「また、お気づきの」528頁14
・【7】159上7「赤マントが出た」→13頁13「赤マントがでた」529頁3
・【8】159上12〜13「困りまし/た。」→13頁15「こま/りました。」529頁6
・【9】159上14「今となれば」→13頁17「いまとなれば」529頁7
・【10】159下5「出る」→14頁5「でる」529頁14
・【11】159下6「思い出します。」→14頁5「思いだします。」529頁15
・【12】159下7「言われました。」→14頁6「いわれました。」529頁16
【13】159下15〜17「昭/和十三、四年というご記憶は、ご訂正の要がありましょ/う。さて、その紙芝居は、」→14頁11「その紙芝居は、」530頁4
・【14】159下19「という物語りで、」→14頁12「という物語|で、」530頁5〜6
 以上が「週刊アダルト自身」からの寄稿要請と、それに応じての主人公牧野次郎の投書、それに対する読者からの回答と牧野氏の2度めの投書までの異同です。……一度に全てに及ぶと草臥れますので、休み休み挙げて行くことにします。
 大半は、漢字を平仮名に開いたもので、【3】「どうやら」【4】「いうなら」など曖昧にする語の整理もありますが、この中ではやはり、【13】の読者(東京 遠山金次郎)の回答から「昭和十三、四年というご記憶は、ご訂正の要がありましょう。」の一文を削除しているのが注目されます。
 牧野氏が1度めの投書で赤マントの時期を、158頁下段3〜4行め「たぶん昭和十三、四年。私が/小学五、六年生の時分です。」としていたのは『東京百景』でも同じです。しかるに、遠山氏の回答=加太こうじ『紙芝居昭和史』の「昭和十五年」説に一旦「納得」してしまった主人公に対し、同級生(川端氏)が電話で、164頁下段15行め「昭和十五年ということはない。それはありませんよ。」と強く否定したのを受けて、『東京百景』では再び自分の記憶する「昭和十三、四年」に戻しているのです。そのため2013年11月1日付(11)(及び2013年10月31日付(10))にて、加太氏の妄説(?)に対する痛烈な批判だ、と思ったのでしたが、実は初出と同じらしき『文学1983』では、結局同級生の意見には従わず、遠山氏の指摘以降は最後まで妄説に従って、「昭和十五年」説で通していたのでした。
 その後、『東京百景』刊行の前年に刊行したちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』に収録した大宅壮一「「赤マント」社会学」により、赤マントの時期が昭和14年(1939)3月以前と判明し、加太氏の説明が奇怪な記憶違いとしか言いようのないことがはっきりして、それで『東京百景』では改稿していたのでした。遠山氏の回答から【13】の一文を削除したのもその一環なのですが、私はここは残して置いた方が分り易いのではないか、と思います。あった方が、同級生の川端氏による強い否定が引き立ちそうです。少なくとも残したとしても何の問題もないことは、確かです。(以下続稿)

*1:ルビ「やみくも・ひそ」。

*2:1月16日追記】番号のうち字句の修正に止まらないものを赤数字にしました。