瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(91)

小沢信男「わたしの赤マント」校異(8)
 それでは最後の部分、主人公牧野氏の3度めの寄稿の残りの部分と、それに対する「週刊アダルト自身」編集部からの、掲載を断る返信について見て置きましょう。
・【91】169上21「お心当り、」→27頁2「お心あたり」
・【92】169上22〜23「手っ取り早いの/で、」→27頁3「手っとり早いので、」
・【93】169上23〜1「写真をとら/してください。」→27頁4「写真を撮らしてください。」
・【94】169下10「貴稿は二千三百十八字です。」→27頁9〜10「貴稿は二千四百三十八/字です。」
 改稿により120字増加しています。さすがに字数までは確認していません。

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 さて、1月19日付(89)でも見たように、主人公は初稿では、昭和13年(1938)もしくは昭和14年(1939)という自身の記憶を、加太こうじ『紙芝居昭和史』に従って昭和15年(1940)と改めていたのでした。それが『東京百景』収録に際しての改稿時には、「中央公論昭和14年(1939)4月号掲載の大宅壮一「「赤マント」社会学」によって昭和14年3月以前と判明したことで、昭和13年秋から昭和15年という風に範囲を拡げています。
 そして最大の書換え【83】に繋がるのですが、結局、作者の小沢氏(及び主人公)は、自身の見た新聞記事にたどり着けませんでした。小沢信男編『犯罪百話 昭和篇』に収録されている「「赤マント」社会学」も、2013年11月16日付(26)にも指摘したように、このアンソロジーに自分の著述が収録されている朝倉喬司が見落としていたくらいで殆ど注目されず、ネット普及直前だったこともあってネット上にも殆ど情報が上がっていないのでした。他に2013年12月29日付(69)に、『犯罪百話』とは別箇に気付いたらしい『大衆文化事典』を紹介しました*1が、これもやはり殆ど活用されることなく来ているようです。「「赤マント」社会学」には2013年11月23日付(33)に引用したところに「新聞に‥‥記事」との記述があるのですが、『犯罪百話』や『大衆文化事典』の読者の中に、記事を探索しようという人は現れなかったようです。結局その後20余年、存在しているはずの新聞記事の探索は行われずに来たのでした。
 それはともかく、小沢氏は『東京百景』での改稿では、時期を拡げつつ、大きな社会の動きとは別に、新たに「その一方で」と書き加えて「双葉山が六十九連勝で敗れているし(十四年一月)。石川達三「生きている兵隊」の筆禍事件とか、無政府共産党の黒色ギャング事件の公判(十四年三月)などの小記事」に、( )に年月を附記して言及することで、それとなく「「赤マント」社会学」から推察される赤マントの流行時期を示している訳です。
 その、問題の小沢氏(及び主人公)の見た新聞記事は、2013年11月3日付(13)に引いた「讀賣新聞」昭和十四年二月二十五日夕刊(二十六日付)の「デマ取締り/通信社員留置さる」だと思われます。
 この記事で間違いないとすると、『東京百景』での書換え【83】のうち、段落を改めて「この時に」としているところは、宜しくないのではないか、と思われるのです。すなわち、書換えない方が良かった、と思うのです。先に2013年12月27日付(67)の注に瑣末亭主人 編『わたしたちの赤マント』というアンソロジー編纂の夢想を述べて「小沢氏の小説も初出と再録の異同を注記しつつ全文収録して」としていたのでしたが、初出を収録して改稿の異同を注記する、ということにしたいと思いました。その理由まで今回述べると長くなりますので、もう1回延ばして次回、校異の検討の最後に、述べることとします。(以下続稿)

*1:小沢氏及び鷹橋氏が「「赤マント」社会学」に気付いたのは何故なのか、その理由については追って報告します。【2017年2月22日追記】当時既に見当を付けていたのに遅くなって2016年9月15日付(153)に漸く報告した。