瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(118)

 紙芝居「不思議の国」についての続き。
 小沢信男「わたしの赤マント」に示される、主人公の「お尋ね」に対する紀田福子の返事に「あの妙な噂の元は、紙芝居ではなかったでしょうか。なにかそんなふうに伺った気がします」とあって、これを2013年10月27日付(06)に引いた当時は『紙芝居昭和史』で加太氏が自分の紙芝居が原因だと「いいがかり」を付けられた、と述べているのを『紙芝居昭和史』は読まないまでも人伝に聞いて、こんな風に書いているんだろうくらいに思っていたのですけれども、その後、東京の新聞記事等に紙芝居の影響を指摘するものを幾つか見出してはいたのですが、ここに『紙芝居昭和史』に記述された事件が大阪で新聞沙汰になっていたことが判明して、この作中人物紀田氏の記述はその当時の記憶を基にしていることが分かった次第です。この紀田氏の回想をそのまま福田紀一(1930.2.11生)の回想と見なして良いのであれば、それは「小学校の三年生ぐらいの頃」ではなく昭和14年度、小学4年生のときのこととなります。
 さて、新聞記事の検討に戻って、「この流言の根源をつきとめ」たのは「大阪毎日新聞によると「府特高課石川警部」、大阪朝日新聞は「大阪府特高課思想第二係」です。昭和14年(1939)6月20日頃から「北大阪一帯」で打ち続けていたと云うので、もし石川警部の見立てが正しいとすれば、7月8日の時点で「ここ二週間前から」という赤マントの流言は打ち始めた直後から広まり始めたことになります。
 大阪での「奇怪な流言の原因」がこの通りだとしても、問題はこれを加太氏の説明通り「東京」での流言の発生や、その後「横浜」など「東海道の主要都市」への伝播の「原因」と考えて良いか、ということです。この記事を見る限りでは「その絵が移動する順路と時間が、赤マントの人さらいのデマが流布する順路と時間にうまく一致していた」という計算までなされていたのかは疑問です。1月7日付(77)で見たように中村希明によれば昭和14年(1939)の流言は朝鮮半島にまで流布しているので、大阪で「紙芝居興行がさしとめ」られている以上、大阪以西の流言は紙芝居とは無関係ということになります。大阪までの東海道筋での状況にしても、2013年12月30日付(70)に引いた山中恒の回想する昭和14年3月の平塚の例があるのみで、この他の証言の欲しいところです。
 内容は、基本的には東京での内容を踏まえているようですが、東京では見られなかった「吹き矢」や「ロシヤ帰り」などの要素は、東海道を移動する途次での変異なのか、それとも大阪で新たに加わった尾鰭でしょうか*1。東京での流行は4ヶ月も前ですから、東京での流言は、その内容だけ何となく伝わっていて、それが紙芝居「不思議の国」に触発されて大きな騒ぎになってしまったのではないでしょうか。
 紙芝居「不思議の国」は東京では全く問題にされていませんでした。これは無関係だからなのか、それとも東京で流言が発生した段階で既に横浜方面に持ち出されていたため、流言の原因として指摘されずに済んだのか。東京でこの紙芝居の「赤マントの怪人」に恐怖感を植え付けられた子供がいたとして、それが急に「吸血せむし男」の流言として噴出するものではないでしょう。きっかけが必要なのです。大阪では既に東京等での流行がありその知識が素地となっていたために、紙芝居が入って来ると同時に流行が始まった、と考えることも出来そうです。
 大阪朝日新聞には「この紙芝居『不思議の国』は昨年十月東京荒川区三河島町大日本画劇株式会社に作製された」とあります。「大阪毎日新聞では「東京荒川区三河島八ノ一六五二大日本画劇株式会社製作内務省検閲済の紙芝居「不思議の国」」となっています。大日本画劇株式会社は『紙芝居昭和史』に拠れば昭和12年(1937)12月から営業しています。検閲は昭和12年(1937)秋頃に始まったようです。
 昭和13年(1938)10月から東京を巡回し始めたこの紙芝居が、何時まで東京にとどまっていたのか分かりませんが、昭和14年(1939)2月になって他の要因に触発されて秋から冬に掛けて植え付けられた「赤マント」への恐怖心が噴出した、と見ることも出来ましょうか。加太氏の云うように1月(もちろん昭和14年の)まで東京で興行していて、2月には東京を離れていたために問題とされなかったのが、大阪ではこの紙芝居と流言の時間差(time lag)が短くなって紙芝居が興行を打っている最中に流言もぱっと広まったため、紙芝居が原因であることが明白になった、ということにもなりそうです。
 もちろんこれは特高の立てた説に従って解釈して見たまでで、全くの「いいがかり」と解することも出来ましょう。紙芝居と流言の時期がたまたま、お誂向き(timely)に重なったことで「濡衣」を着せられたのだ、と。
 そこでやはり、自分の見た紙芝居が「赤マント」流言の原因とされた、という記憶を語る人がいないだろうか、と思ってしまうのです。昭和2年(1929)生れの小沢信男と同学年が昭和14年度に小学6年生です。大阪では昭和7年度の生れまでが小学生として赤マントの流言を体験しているはずで、その中には紙芝居「不思議の国」を見ていた児童も当然いたはずです。福田氏や2月6日付(106)で紹介したすずき氏は「北大阪」在住でなかったためにこの紙芝居は見ていないようですが、どなたかこの紙芝居を見てその記憶があって内容まで覚えていて、……と、そんなことも考えて見るのです。現存している可能性も皆無ではないでしょう。けれども、どうやって見つけたら良いのか分からない訳です。或いはそのような回想記が既に存在しているのかも知れませんが、大阪の図書館に行かないと点検も出来ないでしょう。東京のものでも片付かないうちから、そんなことをする暇はなさそうです。ですから、私の示した時期を目安にしてどなたか、何かのついでに赤マントの記述に注意するような人が、大阪その他の地方で出現することを待つしかなさそうです。もし見付かりましたら、出来れば当ブログのコメント欄ではなくて、別に詳細を発表して当ブログまでその旨御一報下さい。
 問題の紙芝居「不思議の国」ですが、「興行をさしとめ」られ「厳重注意するとともに‥‥全巻百九十二枚の任意提出を求め」られた後は、加太氏の云う通り焼却されたのか、そうでないとしても返却はされなかったでしょうから、現存していないはずです。
 それはともかく「紙芝居のおっさん」は仮名になっておりまして、住所は「大阪毎日新聞が「東淀川区本庄中通三」、大阪朝日新聞が「大阪東淀川区本庄二丁目」となっています。小杉氏(仮名)と岩本氏(仮名)は同一人物なのだか、それとも読み終わった前半の巻は近所の仲間に回して複数で巡回していたのか、そんな想定も一応はして見るのです。
 本庄は新淀川の南岸、東海道本線と阪急千里線に挟まれた辺りで、当時は東淀川區、その後、昭和18年(1943)4月1日に東淀川區が分割されて大淀區に、平成元年(1989)2月13日に大淀区は北区と統合されて新しい大阪市北区になっています。今は住居表示が違って本庄東本庄西に分かれておりまして、記事に出ている地名については当時の地図を見ないといけませんが、「本庄中通」は本庄西1丁目と中崎2丁目の間のバス停に、その名を止めております。梅田駅や天満に近く、当時既に市街地化していました。

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 以上で紙芝居「不思議の国」についての検討は一区切りとします。最後に、他に気付いた点につき述べて置きましょう。
 まず、当事者の回想であってもそのまま信じる訳には行かない、ということを強調して置きましょう。私も以前は、当人が回想しているのだから間違いないだろう、くらいに思っていたのですが、今回赤マントの回想をいろいろ眺めて来て、自分のことであっても、それも年齢に関係なく、何の検討も加えずにそのまま採用することは出来ない、ということを痛感しました。手間でも何か記述のありそうなところは念のため当たって見るべきですし、時代背景や何歳当時のことを何年後に回想したものなのかも押さえて置くべきです。傍証が殆ど得られないような場合は特にそうです。そんな調べをする余裕がないのであれば、その回想はあくまでも「一説」扱い――ある個人が見て、理解した内容に過ぎないのですから、何に拠ったのか明示するべきです。ネット上の記事が信用されないのは、検索してヒットした説明をコピペして、何に拠ったのかを示さないまま使用するような例が多いからでしょう。
 もう1点、『紙芝居昭和史』その他の回想で述べられる、加太氏の昭和15年(1940)夏の動向に、この「赤マント」の1年のズレが影響するかどうか、という問題が生じますが、赤マントとは別の問題になりますから、これは別に述べることとしましょう。(以下続稿)

*1:2016年7月31日追記】「吹き矢」云々の噂が東京で既に行われていたことについては、2016年8月1日付(151)に述べた。