瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅沼良次編『八丈島の民話』(6)

 2011年10月28日付(5)の続きは別に用意していたのだが、そのままになってしまった。今回は2011年10月24日付(1)の続きのつもりで、本書の成立事情について①及び④1〜5頁の「昭和四十年七月」付、浅沼良次「はしがき」から関係する記述を拾い、「七人坊主」についての疑問点の1つを表明するに当っての導入として置く。
 浅沼氏は本書のきっかけについて、次のように説明している。4頁7〜8行め、

 こうした古い伝説や習俗を豊富に残している八丈島の民間伝承につかれて、私の民話採集の歳月も昭和三十四年、/謄写刷の八丈島昔話第一集を、八高郷土史研究クラブの名で発行してから、すでに七年になります。


 これをいきなり単行本にまとめたのではなく、5頁5〜6行め、

 東京七島新聞社の松本茂資氏には「八丈島の民話」を、二年にわたって同紙に連載の機会を与えていただき、これ/がきっかけとなって単行本にまとめることができました。

とあって、この辺りのことは、この新聞連載を通覧して「七人の坊さん」があるかどうか確かめてから上げようと思っていたら、そのまま2年半が経過してしまった。
 それはともかくとして、最初の報告を「八高郷土史研究クラブ」すなわち東京都立八丈高等学校の郷土史研究クラブの名前で出しているように、浅沼氏は八丈高等学校の教諭であり、この『八丈島の民話』にも生徒たちの協力を得ているのである。その辺りの事情を説明した4頁15行め〜5頁4行めを抜いて見る。

 八丈島の民話は、私が島の老人と古文書から採集したものや、八丈高校の生徒たちが採集した二百もある原話の中/から選んだもので、子供にも大人にも楽しく読めるように再話したものですが、原話の味をなるべく生かすようにつ/とめています。八丈民話の特色は空想とか奇蹟を語る非現実的な真の民話形式よりも、現実的な事件を内容とした物/語が多いということです。これはむかし八丈島が外部との文化的な接触がほとんどなく、民話の原型を移入する機会/【4頁】がなかったので、実際に起きた事件を口碑として残したことにあると思います。
 本書の編集にあたって、八丈高校の国語担当の望月慶雄先生に原稿の点検や、校正に御尽力をいただきました。八/高報道部員の菊池俊、菊池功親、五十嵐怜子、浅沼博子の四君には原稿の整理や、資料の蒐集に協力してもらいまし/た。


 実はこの記述は、私が「七人坊主」に関連して、早くから注意して上げて置こうと思っていた箇所なのだが、前記の作業をすぐにでも実行するつもりが何となくそのままになって今頃になってしまったのである。
 どういうことかというと、「七人坊主」については2011年10月13日付「七人坊主(1)」に示したように、小池壮彦『怪奇探偵の実録事件ファイル2』への瑣末な疑問から出発して、その後、「七人坊主」に限らぬ小池氏の問題追究の姿勢全般に対する疑問へと大きく発展してしまったのだけれども、当初私が「七人坊主」を考える際に参考にした小池氏は2011年10月14日付「七人坊主(2)」に示した『本当にあったおばけの話⑩』に収められる菊池たかし「七人ぼうずのたたり」と、2011年10月18日付「七人坊主(5)」に示した浅沼良次編『八丈島の民話』の2つの「異なるテキスト」がある、というふうに整理していたのであった。
 そして菊池氏については2011年10月17日付「七人坊主(4)」の冒頭に指摘したことだが、東洋大学社会学部社会文化システム学科教授「松本誠一のホームページ」の「八丈島書誌目録稿(作成中)」に「菊池 俊(きくち・たかし 1947年・八丈島中之郷生)」とあって七人坊主の“地元”中之郷の出身であること、さらに生年月日は2011年10月12日付「『ほんとうにあったおばけの話』(11)」及び2011年10月16日付「七人坊主(3)」に示したように昭和22年(1947)7月24日であることを確認していた。
 そうすると、つまり『八丈島の民話』の刊行された昭和40年(1965)8月には満18歳で高等学校3年生、浅沼氏の「はしがき」に「八高報道部員」の筆頭に挙げられている「菊池俊」その人に間違いないと思われるのである。(以下続稿)