瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(10)

 昨日の続き。
 職場からの帰りに図書館に寄って「新聞の縮刷版」を見たのだが、なかなかメモを取っている余裕もないので、ネットで調べられる範囲で済ませて置くことにした。
・正人の府立高等学校受験
 第一章9、タキが時子の姉「麻布の奥様」の発言を時子に伝えた中に、単行本29頁4行め・文庫版32頁15行め、

「先月だって、神戸の宝塚劇場が大火事で焼けたって話なのに、とも」


 宝塚大劇場の所在地は兵庫縣川邊郡小濱村*1、現在の兵庫県宝塚市で、大阪と神戸に挟まれた「阪神間」で特に神戸に属しているという意識はないのだけれども、東京の人間からすると「神戸」ということになるのだろうか。
 それはともかく、宝塚大劇場の火災は昭和10年(1935)1月25日だから、タキが麻布の奥様を訪ねたのは昭和10年(1935)2月ということになる。
 当時、単行本27頁11〜14行め・文庫版31頁4〜8行め「麻布の奥様は正人ぼっちゃんの中学受験に夢中」で、「今年が受験本番で、東京高校だか府立高校だか、とにかく東京で一番の難関校」の「七年制の学校にやるんだと目の色を変えていた」ということになっている。
 これまで当ブログで取り上げた、小説では北杜夫『楡家の人びと』や小沢信男「わたしの赤マント」、自伝では大野晋『日本語と私』や木原孝一「世界非生界」などでも小学生の、中学などの上級学校受験が大きく扱われていたけれども、旧制中学は義務教育の新制中学と違って入試に合格しないと入れない。入試に失敗して、私学に入る余裕がないとなるとどうしようもないので、木原氏の自伝に語られるように、小学生にして自殺する子供が生じることにもなる。――難関校になると熾烈な競争になるので、小学校で補習を行ったり面倒を見たので、そういう実績のある小学校に入れたがったのである。
 官立の東京高等学校(旧制)は現在の東京大学教養学部の前身の1つ、府立高等学校(旧制)は現在の首都大学東京東京都立大学)教養部の前身で、ともに七年制高等学校であって、尋常科4年が旧制中学に、高等科3年が旧制高等学校に相当する。
 但し東京高等学校の尋常科は昭和9年(1934)に廃止されているので、昭和10年(1935)に受験している「正人ぼっちゃん」に関連して「東京高校」が持ち出されるのは、そういうことを気に留めていなかったはずのタキの記憶としては、違和感がある。「東京高校だか府立高校だか」とボカしてはいるけれども。
 すなわち「正人ぼっちゃん」は昭和9年度に小学六年生(満12歳)だったので、大正11年(1922)度の生れということになる。20歳前に生んだとして「麻生の奥様」は、明治42年(1909)生の時子より6歳かそこら、年上ということになろうか。「麻生の奥様」の子供は「正人ぼっちゃん」しか話題に上らないから、一人息子だったのだろう。
 とにかく正人は「東京高校」ではなくて「府立高校」に入学したので、その後の経過は第六章10、単行本221頁14行め・文庫版239頁3行め、昭和18年(1943)のこととして、

 正人ぼっちゃんは、府立高等学校から首尾よく帝大の理科に進んでいらして、‥‥

と見えている。(以下続稿)

*1:「こはま」と読む。