瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(14)

・布宮タキの親族(2)
 昨日の続きで「軍治おじさん」について。
 最終章2、平成18年(2006)春に上京した健史が訪ねたとき、「大伯母の姉の息子」すなわち健史の「父の従兄」の「軍治おじさんはすでに七十を過ぎて、蔵前のマンションに奥さんと二人で住んでいた」。
 タキが「戦後初めて東京に出た」のは昭和21年(1946)の正月で、「その前年の十一月」にタキが寺で世話をしていた「学童疎開」が「終わり」、タキは「実家に戻っ」ていた。当時「軍治おじさんは小学生、つまり国民学校の生徒で、復員した伯父と伯母の間にすぐ子供が出来たりして、昭和二十年、二十一年くらいは大変だったらしい」。
 従って、昭和20年度には国民学校初等科の生徒だったので、六年生として昭和8年(1933)度の生れ、「七十を過ぎて」に従えば平成17年度中に満71歳になっていないと不自然であるから、平成16年(2004)度中・平成17年(2005)春までに満70歳になっている計算になる。そうすると、軍治の生年は昭和8年(1933)度か昭和9年(1934)度の2年間に絞られる。昭和20年(1945)度には五年生か六年生のいづれかである。
 最終章2、軍治の妻の「景子おばさん」も「私たち、結婚したころ」タキの話を「何度も聞いた」と言っている。タキが景子と話すようになったのは、もちろん軍治との結婚後のことだろう。軍治の学歴・職歴等は示されないから、見当が付けにくいが一応満25歳の頃に結婚したとすれば、昭和34年(1959)頃ということになる。差当り、昭和30年代として置けば良かろうか。
 戦後のタキについて最終章3、「景子おばさん」は、「‥‥。おばあちゃんだって、山形帰って、うちの人らとみんなで畑なんか作って、どうにかこうにかやって、それから春日部へ出て、家政婦始めて、それからあんたのとこのお父さん兄弟を引き取って、たいへんだったんだもの。‥‥」と述べている。
 健史が軍治を訪ねるのは、最終章2、タキの甥・軍治の従弟である父に「軍治おじさんは、‥‥、戦時中と戦後の一時期はいっしょに暮らしていたはずだから、話を聞いているかもしれない」と言われたからである。従って、山形での同居時代に話を聞いているだろうと考えていたことになるのだが、昭和30年代に景子と結婚して後のこととすると、この健史の父の想定は、外れていたことになる。聞いていたことは、しっかり聞いていたのだけれども。
 但し、タキや、軍治・景子夫妻が東京(近郊)に出て来た時期がはっきりしないから、どこで、いつ、そんな「何度も」タキの話を聞かされるくらいの交際があったのかは、推測のしようがないが、そこは健史の父が「あのころをいっしょに過ごした人たちは仲がいいからね」と言っているような按配なのだろう。
 前回指摘したように、甥(妹の息子・健史の父)が高校生のときには、最終章3、タキと「春日部」だかどこだか、とにかく「東武線沿線」で同居していたことになるのだが、妹夫婦が死亡した時期や死因は明らかでない。最終章2に「父は早くに両親を亡くし、大伯母が親代わりだったという経緯があるので」と云うまでである。(以下続稿)