瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(20)

・後悔する健史(3)
 健史の反応については別に纏めて示すつもりだったが、ついでだからここに初めての「感想」を見て置こう。6月8日付(05)に示したような経緯で「盗み読み」するようになるのだが、いきなりこんなことを言い出す。第一章11、単行本36頁3〜14行め・文庫版40頁6行め〜41頁2行め、

 おばあちゃんは間違っている、昭和十年がそんなにウキウキしているわけがない、昭|和十年に/は美濃部達吉が「天皇機関説問題」で弾圧されて、その次の年は青年将校が軍|事クーデターを起/こす「二・二六事件」じゃないか、いやんなっちゃうね、ぼけちゃっ|たんじゃないの、というのだ。
 人聞きの悪い、誰がぼけるものか。
 だって、おばあちゃん、そのころ日本は戦争してたんでしょ、と健史は言う。
 いや、事変はあったけども、と言おうとすると、健史は眉間に皺を寄せて、
「じへん、じゃないの、せんそう! そんなのただの、言葉のごまかしでしょう」
 と怒るのである。
 しかし、あのころは、日本では、「事変」はあっても「戦争」はなかったし、「戦争」|といった/ら、イタリーとエチオピアとか、スペイン内戦のことだったんだと言ったら、|健史は心の底から/腹を立てたらしく、目を剥いた。
 なんと無知な大伯母と思ったのであろう。しかし、大伯母は、‥‥


 いきなりのボケ老人呼ばわりである。「事変」か「戦争」かなんて、「自分史」と同レベルの八つ当たりだ。いや、最初にこうだったのは、仕方がないとも思うのである。翌年にはタキも本当にボケてしまうのだし。しかし、問題は健史である。昨日引用したように、最後までこの調子なのである。途中で反省して、当時の庶民生活や国内の報道について調べようとした形跡は、全くない。
 そればかりか最終章2、単行本281頁5行め・文庫版299頁17行め、タキの遺したノートをすぐに読む気にならなかった理由を弁解するところで「感想を言ってあげる相手はもういないのだし」と述べていて、どうやら真っ当な感想を言ってあげていたつもりだったのだ。これじゃ反省しない訳だ。
 しかしながら、昨日引いた「戦争のこと」云々も、或いは終戦記念日辺りに毎年放映される戦中を舞台としたTVドラマの常套たる、――困窮してゆく庶民生活の背景を、レイテ沖とか特攻隊とかフィリピンとか硫黄島等の戦況悪化の資料映像とナレーションで説明すると云う手法への皮肉と取れば、凄まじいことと思うけれども、それは深読みに過ぎるとも思うのである。(以下続稿)