瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(28)

・最終章「小さいおうち」の構成(5)
 柄にもなく大風呂敷になってきたが、文学作品も読まなければ文学論も囓っていないので苦しくなって来た。それなのに論文の下書きみたいに、同じようなことを少しずつ切り口を換えて書き直し書き直ししているような按配になってしまった。論文であれば一番効果的なものを挙げて他は捨ててしまうのだが、ブログなので試行錯誤も御容赦願いたい。別に論文にする予定もなければ、そこまでの内容でもないのだけれども。とにかく、書き方の問題はこの辺で切り上げ、早々に細々したことの確認に戻すべきであろう。

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 とにかく最終章では、作者が周到に“謎”の解明にのみ集注するよう登場人物の健史を仕向け、読者もうかうかとそれに乗せられてしまうような按配になっている。これには2013年12月21日付「赤いマント(61)」の【2014年6月27日追記】に引いた、単行本の帯にある「|昭和モダンの記憶を綴るノートに隠されたひそやかな恋愛事件|」という文句も与って力があると思う。もちろんこの「隠されたひそやかな」というのは、ノートに第二章6から第六章の終わり(15)まで、時期でいうと昭和12年(1937)の「夏」から昭和18年(1943)の「秋」までちょくちょく登場する板倉正治と、ヒロイン平井時子とのことではない。2人の関係は、まるで「ひそやかな」ものとして書かれていないからだ。それに「板倉さん」と「時子奥様」の間に具体的に何があったかは、別に“謎”という程のことでもない。「市原悦子が出てくるテレビドラマ」のように覗き見しないタキは、具体的なことは何も書けないが、見ていないから分からないようなことでもないのだ。それに、第六章15の最後の行(単行本232頁3行め・文庫版249頁13行め)は次のようになっている。

 あの日、坂の上の小さなおうちの恋愛事件が幕を閉じた。


 時子と板倉の関係は、ここではっきり終止符が打たれているし、恭一ぼっちゃんの同級生にも曝露されて国民學校の担任から注意を促す手紙が届くなど、全く「ひそやか」でない。したか、しなかったか、は書いていないけれども、どうも、したらしく、書いてある。
 けれども、これが帯にいう「ひそやかな恋愛事件」らしく思えてしまうのは、他に「ひそやかな恋愛事件」らしき要素がなく、タキからは見通せていたにせよ、人妻の、人目を憚る「恋愛事件」には違いないから、第七章までのタキのノートを読む限りでは、これが「ひそやかな恋愛事件」なのだろうと思わざるを得ない。
 ところで、時子をして道ならぬ恋へと走らせた理由としては、最初の奉公先で小中先生から、そして東京を離れる直前には恭一ぼっちゃんからも、性的な部位への接触を受けたタキが、2人きりになっても自分に挑んで来ないことで平井の旦那様が性的不能であることに気付くのだが、その欲求不満が(と云っては身も蓋もないが、そういうことなのだ)指摘される訳だ。
 先に私は、ノートの内容に文句を言っている人に対して、タキはノートをそのまま公開するつもりではなかったし、健史も封印を決意していて、すなわち登場人物の住む世界では誰もタキのノートを公開していないのだ、みたいな理屈を考えて、反論してみたのだけれども、――まぁこんなことをずらずらと書き連ねてしまうタキってやっぱどうよ、と思ってしまいますなやっぱり。
 Amazonレビューに寄せられた意見では他にも、怒濤の伏線回収が指摘されていたが、確かに思わせぶりに書いて置いて、後段でそれについて何ら決着を付けないようなことが、ない。非常に理詰めなのである。感情が燃え盛るのは理屈ではないのだから、別に旦那様が性的不能でなくとも構わないと思うのだが、本当に最終章で健史が解明するくらいの“謎”しか残らないくらい、無駄がない。
 それはともかく、周囲の目を引きタキの諫止にまで進展していた時子の板倉との関係は、板倉の応召で終わりを告げる。だから、時子と板倉との「恋愛事件」が帯にいう「恋愛事件」なのだとの当初の予想を崩さずに読んできた素直な読者も、流石にここまで読んで、そうじゃないらしい、と気付きそうなものだけれども、ここまでこの「恋愛事件」が引っ張られているうちに、ちっとも「ひそやか」でないこれが、本題の「恋愛事件」のように思えてしまうのだろう。
 そして昭和19年(1944)3月、第七章1でタキが帰郷することになり、その後、第七章6〜11、昭和20年(1945)3月上旬に疎開児童の帰京に付き添って上京したのを最後に、第七章12、東京の登場人物たちが結局どうなったのか判明しないまま終戦を迎え、そこでノートの記述も中途半端に終わってしまう。
 最終章で健史が遺された“謎”の解明に挑む。健史がノートに登場する自らの行状への反省などの無駄なこと、というか最後の“謎”解きに関わらないところに一向に無頓着(?)なことで、ノートが未完で宙ぶらりんにさせられた読者の興味を、かっさらって行く。最終章をタキの最晩年から始めずに「イタクラ・ショージ」と「小さいおうち」から始めることでも、読者はその謎解きの方に、違和感なく移行する。
 そして、殆ど忘れていた、というか既に決着が付いたと思っていた「ひそやかな恋愛事件」が、実は平井時子と板倉正治の「恋愛事件」ではないことが最後に明かされて、思わぬ展開と思って感心する人も多い訳である。
 この、本当の「ひそやかな恋愛事件」は、察しが付くと云えば付いてしまうようなものなので、私などからするとやはりもう少し健史の人物造型とか、そういった辺りの時代設定以外の背景を、頑張って欲しいという気持ちがしてならないのである。設定のうち弱いのではないかと思われた箇所(健史が反省しない理由など)も、こうして確認して行くとそれなりに工夫を凝らして伏線を張っていることは分かるだけに、もう少し複雑さがあって良いのではないか。健史の造型もそうだし、時子と板倉の惹かれ合う理由も。まぁタキにはそこまで書けないことに、なってはいるのだけれども。(以下続稿)