瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(36)

直木賞の選評(1)
 こんなに長く本書について書き連ねるつもりはなかったのだけれども、私には、直木賞選評に、例えば浅田次郎(1951.12.13生)が、

 中島京子氏の作品はそれぞれが個性的で、通読して飽きることがない。好奇心が旺盛でかつ書くことが好きであり、つまり才能以上に小説家資質に恵まれている。『小さいおうち』にはそうした稀有の小説家的資質が存分に発揮されていた。この作品に遍満する時代の空気は、丹念な取材と精密な考証がなければ表現不可能で、それをなしえたのは、やはり才能というより「好きだから」という資質に拠ると思われる。次はどんな小説を書くのだろう、という読者の正当な期待に応えられる作家はあんがい少ないものだが、氏はそのうちのひとりにちがいないと信じて強く推した。

と書き、或いは林真理子(1954.4.1生)が下した

 若く伸び盛りの方が、ずらりと揃った今度の選考会であったが、中島京子さんの『小さいおうち』が突出していた。
 とかく暗い時代と定義づけられる戦前、戦中であるが、健全な中産階級と文化が存在していたことをこの小説は教えてくれる。‥‥ 細かい描写にも、実に注意がゆきとどいている。‥‥ 奥様に無私の心と憧れを持ち、家族のようでいて家族ではない。外国のようにきっぱりとした階級の理知も働かない。日本の女中という種族を、学芸員が理解出来ないラストは見事だ。
「結局、恋人は奥様のところへ訪ねていったのか」
 という論議が長くされたが、私は女中の企みが働かないところで、奥様と恋人の運命はちゃんと動いているということだと解釈している。

という評価は、ちと買被り過ぎていないか、と思えてならないのである。
 初めに、必要があって(?)本書の一部を読んでみたときに、これはいけないのじゃないか、という予想を持った。少しそういうようなことも書いた。けれども、私のような愛読者でない人間が、立読みして気付いたようなことで批判がましいことを書くと、それが仮令、致命的な欠点であったとしても、それだけでは、――きちんと読みもしない癖にちょっとしたことで鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立てて、と眉を顰められて、お終いである。
 だから多分、私が致命的と思ったところの他にも、小さい問題はいろいろあるだろうとの予想を立てて、直木賞と映画化とで公立図書館が買い込んだ大量の単行本が漸く書棚に位置を占めるようになり、さらに文庫版も見掛けるようになったのを機に、メモを取りながら読んでみることにしたのである。
 もちろん、私は小説をあまり読まないので、他の作品と較べてどうのと云うつもりはない。
 第143回直木賞の選評は、掲載されている「オール讀物」2010年9月号はもう近所の図書館に保管していないので、ジキル古賀(1955生)のHP「ジキル古賀のヒメノ式で行こう!」に挙がっている「第143回 直木賞選評全文 『オール読物』9月号より(2010)」にて通読した。もちろん、中島氏以外の作品も読んでいないので、この、選者によってかなり食い違っている評価の是非を判断することは出来ないが、浅田氏・林氏の他は、そんなに褒めていないことが気になった。ただ、北方謙三(1947.10.26生)の評には、川口則弘HP「直木賞のすべて」にまとめられている「選評の概要 第143回」に載るものと比較するに、脱落があるようなのだけれども*1。(以下続稿)

*1:どうも、それ以外にもかなりの脱落があるらしいので、しかし引っ込める余裕もないので、やはり「オール讀物」を確認した上で追って修正します。