瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

川端康成『古都』(4)

・単行本(2)
 7月22日付「中島京子『小さいおうち』(40)」にて毛筆の連綿について触れた。過去にも2011年6月25日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(14)」でも触れたことがあった。最近、高島俊男(1937.1.16生)の訓読み廃止論の影響を受けてか、平仮名の多用が目に付くような気がするのだけれども、連綿体を復活させでもしない限り読みづらいだけだ。私などは語幹は漢字表記にするべきだと思っている。高島氏の説は、理屈としては正しい(かも知れない)けれども、現実に即さない愚論である*1。だから当人も実践出来ていない訳だし*2。それに、音読みだけ教えたら意味を一緒に覚えられなくなってしまう。訓読み、つまりその漢字の日本語の意味と一緒に覚えるから、私たち日本人にとって漢字は使えるので、訓読みを切り離したらたちまち訳が分からなくなって、高校で古典文法を一応習っても全く読めない古文と同様に位置に、漢字も落ちることであろう。中学・高校で英語を習っても使えない、とか政治家が騒いでいるけれども、むしろこっちの方が深刻なんじゃないのか。
 けれども昔から平仮名を多用する人はいて、私は川端康成を殆ど読んでいないので全体的な傾向は分からないが『古都』も平仮名が多いと思ったのである。しかしこれも、文章の下手な人が、たとえばわたくしのようなあまり文章をきれめなくだらだらとつづけてかくような人間が、やったのではよみにくくてしかたがないけれども、……まぁ、それで、漢字を混ぜないことで文体も締まってくるのなら、歓迎すべきことなのかも知れないが。
 平仮名の活字がだらだら続くのは読みにくい。そうするとカナモジカイが片仮名でやっていたように、毛筆の連綿のような効果を“分ち書き”によって狙うことになる。つまり、ことば と ことば の あいだを わけて かくことで、文脈などを かんがえたり しなくても、あやまりなく 単語や文節が みわけられるように するのである。
 それで、何で『古都』単行本についてのメモにこんなことを書いているか、だけれども、どうも、この単行本は、そういう組み方をしているらしいのである。
 全てそうなっているのではなくて、1行の字数(42字)を何らかの事情で、例えば括弧や句読点等のために1字分減らさざるを得なくなった場合、現在ならその1行に1字分を均等にならして、1字1字の間を少しづつ空けることで、収めてしまうが、活版印刷では均等に分ける方が厄介なので、活版印刷の本を見ると1行のうちである部分だけ変に字間が間延びしたようになったり、可笑しな按配になっていることが良くあるのだが、本書ではそこを、分ち書きのようにして処理している場合が多いのである。
 句読点が行末に来る場合、ぶら下げずに半角で追込みにしてある。7頁10〜11行め、7頁10行めは41字しかない(行頭1字下げ分含む)がそれは11行め冒頭が「に、‥‥」となっていて「に」を10行めに追込むと読点が収まらなくなってしまうので、そこで10行めは字数を1字分減らしているのだが、

 大きく 曲がる少し下のあたり、幹に小さい くぼみが 二つあるらしく、そのくぼみ それぞれ

となっている。ここでは半角スペースで示したが実際にはもっと狭く、合せて1字分である。
 これなどは植字工が意図してやったのではないか、と思われるのだ。但し、全てがこのように処理されているわけではなく、文節などお構いなしにしているところもあって、それは1人の植字工が全てを組む訳ではないから、乱れも生ずるのである。
 ちなみに文庫版②5頁10行め・③5頁10〜11行め、

 大きく曲る少し下のあたり、幹に小さいくぼみが二つあるらしく、そのくぼみそれ\ぞれに、|‥‥

となっていて字間は詰まっている。なお、②の最後の読点はぶら下げ。
 以下、同様の例を挙げて置こう。(以下続稿)

*1:漢字の「山」を「やま」と読むのは「mountain」を「やま」と読むようなものだ、と言うのだけれども、表意文字の漢字と表音文字のアルファベットと、同じにはならないだろう。表音文字「mountain」を「やま」と読むのが無理だという感覚を、表意文字「山」を「やま」と読むことに当て嵌めさせようとするのは、すり替えなのではないのか。――高島氏の説明は、こうした強引な展開をどうにかするところからやり直さないと、駄目だと思っている。

*2:漱石の夏やすみ』で実行しようとしたが、断念した旨、同書に断ってあったと記憶する。