瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

遠藤周作『作家の日記』(2)

 遠藤周作(1923.3.27〜1996.9.29)はこの留学体験について、私はまだ殆ど読んでいないのだけれども、たびたび取り上げているようだ。
 「日本経済新聞」文化面の「私の履歴書」は、当ブログでも『どくとるマンボウ回想記』として纏められている北杜夫(1927.5.1〜2011.10.24)について、何回か取り上げたが、遠藤氏も平成元年(1989)6月の「私の履歴書」を核として『落第坊主の履歴書』を纏めている。
・単行本
・文春文庫(1993年2月10日第1刷・定価388円・237頁)
・日経文芸文庫(私の履歴書2013年10月23日第1刷発行・定価550円・237頁

 詳しい比較は単行本を見た上で、出来れば初出も参照した上で果たしたいのだが、今回は差当り、8月13日付(1)に取り上げた火山噴火の記述について、補足して置きたいのだ。「私の履歴書」は全部で29章に分かれており、その24番め「帰国した頃」の冒頭、文春文庫版102頁2〜8行め・日経文芸文庫版100頁2〜8行め、改行位置は文春文庫「|」・日経文芸文庫版「\」、

 留学から戻った日本は出発前とはまったく変っていた。朝鮮の戦争が軍需景気をあお|っ\たのである。
 マルセイユに向う船が、ヴェスヴィアス火山の近くを通過する真夜中に私はこの戦争|を\知った。誰もいない四等船客用の甲板にもたれ、間欠的に吹きあげる火柱と溶岩の流|れを\見つめていた私に、通りかかった船員が一枚の紙をわたした。そこには三十八度線|を北朝\鮮軍が突破したというニュースが書かれていた。
 あれから三年がたった。帰国した私は大袈裟にいえば浦島太郎のようだった。‥‥*1


 この朝鮮特需については、当時の出版物を見ても、前と後とで差は歴然としている。それまで仙花紙だった本文用紙が上質紙になりアート紙の口絵も附されるようになる。
 それはともかく、この回想はいろいろおかしい。
 まず、ヴェスヴィオ火山(Vesuvio)*2は、第二次世界大戦中の昭和19年(1944)3月18日から24日までを最盛期とする噴火活動が最後で、以後活動を休止している。もちろん遠藤氏が噴火活動を目にする機会は存在しない。
 ちなみにナポリ(Napoli)は昭和18年(1943)9月末のドイツ軍に対する民衆蜂起(ナポリの4日間)を経て10月1日に連合軍により解放されていた。そのため当時の英語のニュース映像が残されている。


 もう1つ上げて置いた。
 航路からしてもおかしい。『作家の日記』を参照するに、昭和25年(1950)7月3日の夜中にメッシーナ海峡を抜け、7月5日の朝にマルセイユに到着している。メッシーナ海峡からマルセイユまでは北西にほぼ直線に進めば良く、その航路の途中、7月4日の夕景の頃「コルシカの前を通る。」として「赤い屋根、クリーム色の壁、ロマネスクな島だ。家の中まで手にとるようにみえる。」と描写しているのだが、北のコルシカ島と南のサルデーニャ島を隔てるボニファシオ海峡と見て間違いない。遠藤氏が望見した町はコルシカ島南岸の港町ボニファシオ(Bonifacio)である。
 そうすると遠藤氏の乗った船が、ナポリに寄港した訳でもないのにわざわざヴェスヴィオ火山をはっきり認められる距離まで近付いたとは、到底考えられない。ナポリの100km以上沖合を航行していたはずである。
 大体『作家の日記』の記載から判断して、噴火した「島」はストロンボリ島としか考えられないのだ。メッシーナ海峡とボニファシオ海峡を結ぶ線上に位置する*3。この「私の履歴書」の記述は、遠藤氏が記憶に頼って、イタリア南部のあの辺の活火山、と考えたときに、ストロンボリ島ではなく何となくヴェスヴィオ火山だと思って、地図も日記も確認せずに書いてしまったのだろう。尤も『作家の日記』でもシチリア島を「クレタ島」と書いており、どうも遠藤氏は地理には疎い方だったかと思われる。
 それともう1点、朝鮮戦争勃発を知った時期である。先にも触れたように7月1日条、スエズ運河航行中に「船のニュース」で「アメリカ報道の伝える所によると、トルーマン大統領はマッカーサー将軍に、必要な兵力を南朝鮮に供給せよと指令し、既にP51十機が南朝鮮に送られた」ことを知る。そして7月2日条にも「北朝鮮南朝鮮の戦いは愈々激化する。既に、アメリカ兵力自体が南朝鮮の戦闘に参加していると報道された。」とある。
 そうすると、真夜中の噴火目撃と朝鮮戦争の一報という印象的な出来事が頭の中で合成されてこのような場面で出来上がり、さらに地理的な錯誤までが加わってしまったことになる。
 噴火に朝鮮戦争が重なったのは、7月3日条の前回引かなかった講談社文芸文庫版26頁15行め〜27頁3行め、噴火を目撃するまで起きていた理由を述べたところと関連して来るのだろう。

 二等甲板の椅子にすわり、小説の腹案を考える。今日までのぼくの一ヵ月間、それが主/題だ。一人の一九五〇年代の青年が、マニラを見、シンガポールを見、各民族に接し、コ/ロンボを見、そして別の形でジプチに感動する。ぼくの中にある二つの主題の対話――そ/の時、南朝鮮北朝鮮との戦いの報道をきく。これが主題だ。


 この、構想していた小説の「戦いの報道をきく」場面に、偶然目撃した光景が歳月を経る内に*4記憶の中で重なってしまった、ということなのだろうか。とにかく本人の回想といってそのまま信じるのは危険であることを、改めて強調して置きたい。記憶は美しく、劇的なものに変わってしまいがちなのだろう。(以下続稿)
 最後に、昭和25年(1950)2月15日アメリカ、10月8日イタリア公開、昭和28年(1953)10月31日日本公開のロベルト・ロッセリーニ監督、イングリッド・バーグマン主演『ストロンボリ』にもストロンボリ島の噴火が収録されていることに触れて置こう。公開の前年の撮影であろうか、家屋を噴石が直撃するなど、噴火の規模が大袈裟になっていることが気になって躊躇していたのだが、参考までに上げて置くことにした。


 遠藤氏が目撃した時期に最も近い映像ということになる。

*1:ルビ「おおげさ」。

*2:ヴェスヴィアス(Vesuvius)は英語読み。

*3:船はストロンボリ島の南から西へと進んだものと思われる。

*4:8月23日追記】「、構想していた小説の」及び「歳月を経る内に」を補う。