瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐藤純弥「新幹線大爆破」(1)

 学部を卒業した春休み、私は内海に面した田舎町に、友人の実家を訪ねた。2011年2月22日付「上野顕太郎『帽子男』(1)」にも書いた、『帽子男は眠れない』を持っていた友人である。彼は地元の中小企業に就職が決まっていて、今は公務員になってしまったのだけれども、早速アルバイトに駆り出されていて、日中はいない。そこで、母親とワイドショーを見たり、甥っ子と遊んだり、下駄履きで川縁の道を下って砂浜を歩いたりした。
 高くはないが山の深い地方で、近くに、犬の散歩に歩いていて迷い込んだところ、犬が異常を察知して吠え出して止まらなかったとかいう体験をした人がいる廃村があるとかで、日曜には友人の車に乗せてもらって山中に出掛けた。山の頂上に近い辺りにも集落があって、そこへ行くのに手掘りの隧道のある、舗装はされているけれども車1台がやっとの幅の道を行くのである。廃屋もところどころ目に付いた。
 実は私が、校内の「何かある」とされている場所に行ってみる、という以上のこと、すなわちわざわざ心霊スポットらしき場所を訪ねようとしたのは、高校の帰りにふと思い立って、炎天下を20Km以上歩いて2箇所、見て回ったことを除くとこのときくらいしかないのだ*1が、私の持っていた国土地理院の25000分の1地形図で、どうもこの辺らしいという見当を付けて出掛けたのだけれども、友人も場所を知っていた訳ではなく、その辺りに入る数少ない山中の舗装道が通行止めになっていたり、なかなか思うに任せず結局諦めて帰って来た*2
 しかし別にこれと云って何もない地方なので、何日も厄介になっているとすることがなくなって来る。そこで漫画なんかを読んだりしたのだが、何かビデオで面白いものはないか覗いてみた棚に『新幹線大爆破』があったのである。当時私はビデオを見るという習慣、というか発想がなくて、それは家でチャンネル権を持っていなかった私は、あまりテレビの前にいることが出来ないので、映像作品に慰みを求めなくても済むような考えで過ごして来た(専ら図書館通いしていた)からなのだけれども、小説を読むのは遅いし(いろいろ確認してしまうので夢中になって長編小説を一気に読んだ、なんてことがない)漫画を読むのも疲れる。オバさんと世間話をするのは得意なんだがずっとくっついてる訳にも行かぬので、流石に暇を持て余して、見てみようかと思ったのである。しかしビデオデッキの扱いが分からぬので、念のため帰宅した友人に聞いてみると「名作」だと言う。
 で、翌日、友人が高校時代から暮らしていたという、1階がガレージになっている離れの2階で見て、名作だと思った。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 昭和50年(1975)7月5日公開。
・DVD

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・海外版DVD
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サウンドトラック
新幹線大爆破

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・チラシ
 今回、この記事を書くに当たって、ネット上のコメント・Amazonレビューやブログ記事若干に目を通してみた。
 で、「大爆破」と題しているのにそうなってないことを問題にしている人がいたけれども、結局「爆破」されないだろうという予測は付くので、――そんな映画を作ったらそれこそ大問題だろう――、「大爆破」で構わないんじゃないのか。
 それから、海外版(未見)ではばっさりカットされているらしい犯人側の背景描写を不要とする意見も少なからず見受けられる。パニック映画として中途半端だと云うのだ。けれども、私は「××映画なのに……」という定義に引き摺られて、それに合っているか否か、を基準に判断を下そうという行き方に賛成出来ない。一頃の左翼文化人がよくやった、過去を論評して、彼は「時代の限界」を越えられなかった、とか、新しい発想の息吹は認められるが「意識の古さ」は如何ともしがたかった、とか、当人の与り知らぬ基準で判定を下すことと、大差ないように思われる。それならパニック映画だと思わなければ、良いのである。
 犯人の背景描写がなかったら、こんなに長い映画にする必要はないだろう。2時間ドラマか、「科捜研の女」に出て来る変質者っぽい犯人と何等変わらなくなる。
 第一、起爆装置も倒産した自社の技術を応用して手作りしたもので、そこからして、犯人は高倉健扮する板橋区志村2丁目の町工場・沖田精器製作所社長沖田哲男(40歳)でないといけないのである。爆弾と云えば、山本圭扮する革命の夢破れた過激派崩れのヒモ古賀勝(昭和23年生)が絡まないといけないのである。そこに、恐らく昭和47年(1972)の沖縄返還の頃に集団就職で上京して来たものの、昭和48年(1973)のオイルショックによる不況で失業して売血でかろうじて食いつないでいた、織田あきら扮する大城浩(19歳)が加わる。知り合った順序は、沖田社長がそんな浩を拾って社員にするが半年後に沖田精器は倒産、近くの高校(?)のグラウンドでラグビーの練習を眺めているうち、昼日中に同じようにしている古賀を知り、既に差し押さえられて退去も間近の廃工場に誘う、という順序なのだけれども、古賀と知り合ったときには、沖田の妻子は離婚して実家に戻っていて*3浩が建築現場で働いて沖田に恩返ししており、古賀も同じ現場で働くのだが、落下物に当たって浩が負傷し、治療費をケチった現場監督に古賀が過激派仕込みで食って掛かったことで、2人とも解雇になる。低賃金で使い捨てられ、負傷しても大した補償もなく、熱でも出ているのかうなされる浩を見ながら、古賀がこの社会に一矢報いることを思い付き、沖田もそれに乗るのである。
 もちろん普通はこんなことは思い付かない。けれどもそれではお話にならないので、思い付かないことには話が進まない。そこでこの3人の組み合わせなのである。当時の世相を折り込んで、それらしく仕上がっていると云えよう。(以下続稿)

*1:行かないこともないけれども、それは何となく近くを通りかかって少し回り道をしてみると云ったような行き方で、こんな風に車を仕立てて(?)出掛けたのは後にも先にもこのとき限りであった。

*2:実はその前後3年ほど、私は春と夏の休暇ごとに訪ねていたので、この肝試し(?)が学部卒業のときのことだったかは、実は自信がない。たぶんこのときだったように思うのだけれども。……しかしこの映画を見たのがこのときだったのは、次に述べる理由から間違いない。

*3:倒産直前に目黒区鷹番5丁目の実家に戻ったものと思われる。