瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

早川聞多『現代語訳 春画』(1)

 もともと古典専攻なので、院生の頃には所蔵先を調べて指導教授に推薦状を書いてもらって大学図書館を通して閲覧申請をして送付されて来た許可状に印鑑を持って、版本や写本や、書簡の類も読んだものである。今は、ネット上にカラー写真で公開している大学や図書館も多くなったので、いよいよ、わざわざ閲覧申請して調べに行かなくても良くなった。それに目下、研究職でも正規雇用でもないので、貴重書扱いされている古典籍の閲覧申請は、出来なくはないが、すんなり行かなくて面倒なことが多いのである。中には見せてもらえなかったり、調べた結果の公表に関して制限がかけられたりする。何のために博士号を取って置いたのか分からない。……博士号よりも肩書きなのか。しかし、博士号を乱発したのだから、まともな研究職に就けていない博士も多いだろう。そういう連中でも研究が続けられるよう、制度を改めてもらわないと困るのである。
 それはともかく、古典など今時売れないのである。正直、そんなに研究者も要らない。だから、研究者の肩書きがなくても、道楽であっても続けられるくらいにしないと、無理が重なるばかりだと云うのだ。
 バブル期の頃、かつて『日本古典文學大系』で儲けた岩波書店と、『日本古典文学全集』の小学館とが、それぞれ『新日本古典文学大系』と『新編日本古典文学全集』を始めたのだけれども、売れなかったそうだ。かつて売れたのだって、全集や百科事典を買い揃えて書棚に並べて悦に入るという、高度経済成長期の“総”中流層の知的虚栄心に訴えたからで、決して古典文学が好きで買った訳ではない。どれほど愛読した人がいたのか。売れただけ読まれていたら、これほどの凋落は示さなかったであろう。しかし、これらの大事業の成功と大学進学者の増加により国文科も景気が良かったから、いもしない2匹めの泥鰌を狙ってしまったのである。
 結果、在庫が捌けなくて困っているらしい。
 過日書いたことの繰返しになるが、AO入試とか推薦入試とか、本当に読めるのかどうかを試さない入試では、授業で扱っている、ごく限られた教材のごく限られた範囲について、丸暗記でも何でも何とか誤魔化してそこそこの評定を取れば良いので、古文・漢文、読めなくても何とかなるのである。大体、一般入試で国文科に入るのにも、古典で受けなくっても良いところがあるのだ。私らの頃には文系学部には古文が必須だったと思うのだが……。大学にいる偉い人たちまでもが、これ程まで古文をないがしろにする情況に抵抗出来なかったのであれば、もう仕方がない。入試による強制という機会でもなければ、若者たちが苦労して読もうと思わなくて、当然である。裾野が全く広がらないのでは、いくら立派な本を廉価で出しても売れる訳がないのである。
 ところが、何故か古文なのに売れている分野があるのである。
 いや、古文だから売れているのではないのだけれども、古文を載せてしかも廉価で出ている。
 で、「こんなんなら安いのに結構立派な本にしてもらえるんだ」と複雑な気持ちになりながら、手にするのだ。
 別にオカズにする訳ではなく、美術品としてどうのという考えもない。ただ、古文が載っているときちんと翻刻されているのか、気になってしまうのだ。で、大抵、間違っている。いや、少しくらい間違いがあるのは別に何にもおかしくはないので、翻刻した人を責めようというのではない。けれども、間違いは間違いだから、訂正はして置きたいのだ。

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【単行本】早川聞多上智大学国文女学生の会『現代語訳 春画 詞書と書入れを読む二〇一〇年四月二十二日第一刷発行・新人物往来社・定価1800円

現代語訳 春画〜詞書と書入れを読む

現代語訳 春画〜詞書と書入れを読む

【新人物文庫】早川聞多カラー版 現代語訳 春画2012年12月13日第1刷発行・定価952円・新人物往来社・295頁
カラー版 現代語訳 春画 (新人物往来社文庫)

カラー版 現代語訳 春画 (新人物往来社文庫)

 単行本は未見。なか見!検索で一部が閲覧出来ます。
 文庫版は、単行本の女子大生が関与している箇所を削ったもののようですが、特にそのような断りはありません。但し収録作品は同じですので、単行本を改版して文庫版にしたのは間違いないところでしょう。
 文庫版007〜048頁「第一作 杉村治兵衛『欠題組物』は現存するのは8枚の題不明の組物です。
 文庫版026〜030頁「第四図」について、ちょっと疑問に思ったところがあるのです。
 すなわち、【第四図詞書】文庫版028頁5行め「あ子がもめる」とあって「あ」の右傍に「(吾)」を当てており、【現代語訳】028頁12行め〜029頁1行めでは「私の/大切な処が痛む」となっています。関西弁の「あ(っ)こ」つまり「彼処(あそこ)」なら「大切な処」を指していると見られなくもありませんが、「吾子」と当ててしまっているのが問題です。すなわち、自分の子を指す名詞、もしくは幼児の自称の代名詞「吾子」に「大切な処」の意味があるのかどうか、ということです。尤も、男性の場合は「あそこ」を「息子」とか「倅」とか云ったりしますが。
 そう思って続く【図版解説】の本文(029頁4行め〜030頁)を読むと、早川氏もこの解釈に無理のあることは認めています。早川氏はまづ、前髪のある「若衆」と媾合している女性について「「振袖の女房」といふ表現」になっているのが「不可解」であるとします。「振袖」は「成人前の若い娘といふ意味」ですから、この「女房」とは「人の妻」ではなく「立派な女性といふ意味で解釈するのがいい」とて、これを「若い身分のある娘」と解釈した上で、029頁11行め〜030頁6行めの段落に、

 次に右の「女房」といふ語につながつて、「あ子がもめる」といふ表現もなかなか難/しいことになるでせう。「あ子」を普通に「吾子」と解釈すると、それは我が子といふ/意味ですから、この女性は結婚してゐることになります。さうすると先の解釈を変/へねばなりません。とすると、「吾子がもめる」とは私の子供がいらだつといふ意味/になりますが、この絵からは子供のゐる情況がまったく感じ取れません。そこで/「吾子」を私のお腹*1の子と解釈してみますと、それなりに意味は通じます。しかしそ/の後で若者が娘の機嫌ばかり気をつかつてゐるところをみると、どうもこの解釈に/も無理があります。そこで少々飛躍しますが、吾子は私の大切なもの、大切なもの/は私の彼処*2と連想して、右のやうな訳をしました。

と釈明しています。そして「二人の周りに草花、女郎花や桔梗、野菊といつた秋草が配されてゐ」るのは、「秋の野中で交はつてゐるやうに見え」るが、そうではなく「江戸時代初期の春画」の「描法を取り入れた」装飾に過ぎないと「推測」します。
 しかしながら、私はこの解釈はいけないと思います。どこがいけないと云って、そもそも、前提である「あ子」が読み違えであるからです。すなわち、026〜027頁「第四図」の図版を見るに、該当する詞書を前後も含めて抜くと、24〜26行め(027頁)、

/せくな お子が/がもめる/といふて/

と読めます。「あ」ではなく「お」なのです。026頁の、それぞれ行頭に位置する14・16行「あ」と18行め「お」と比較して見れば、24行めのこの字が「お」であることは歴然です*3
 そうすると、公家か武家・豪商に仕えている未婚の女房(侍女)が、奥方や子供のお供をして遊山に出掛け、隙を見て「秋の野中」で久し振りに恋人に密かに会って、媾合している、と見ることも出来ましょう。深い解釈は早川氏に再検討してもらうのが一番良いと思いますが、とにかく「あ子」ではない以上、その前提でなされている解釈は白紙に戻さないといけないでしょう。(以下続稿)

*1:ルビ「なか」。

*2:ルビ「あそこ」。

*3:この組物の他の図版から例を拾っても良いのですが、それは数が多くなるだけですので止めて置きましょう。