瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅間山の昭和22年噴火(6)

 10月2日付(3)に「朝日新聞」昭和22年(1947)8月15日付、10月3日付(4)に同16日付、10月4日付(5)に同19日の記事を紹介しました。「赤いマント」のところにも述べたことですが、ある事件なり事故なりに迫るのに新聞一紙だけでは不足なので、複数の新聞を参照すべきなのですけれども、とにかく一紙からでも分かったことをまとめて置くことが、今後別の資料を追加して検討し直すときにも大切になります。それに今すぐに、他紙を見に行く余裕もありませんので。
 まず死者の数ですが、「気象庁」HPの「浅間山 有史以降の火山活動」には「▲1947(昭和22)年小規模:マグマ噴火」とあって、

7月 6日、8月14日。火砕物降下。噴火場所は釜山火口。
6、7、8月に 1回ずつ噴火。8月14日 12:17 の噴火では噴石、降灰、山火事、噴煙高度12000m、登山者9名死亡。
マグマ噴出量は0.00004 DRE km3。(VEI1)

とあるのですが「朝日新聞」の記事よりしても10名は死亡しているので、これは誤りでしょう。――9名というのは山中で死体が発見された人数ということになります。
 遭難者ですが、まず栃木県足利郡(現・足利市)から来ていた3人連れがいます。このうち浅沼氏が全身火傷を負いながら峰の茶屋に下山したことで、早くに噴火直前の様子が判明したようです。
 浅沼氏はどこにいたのでしょうか。桑子・小泉両氏について「先発した」とあります。遅れていた浅沼氏は、未だ頂上に達していなかったのでしょうか。
 16日付記事で「浅沼君が頂上付近でみかけたという二人づれ」は、同日の記事【長野発】に見える世田谷区玉川奥沢町(現・世田谷区奥沢)の「中島」氏の2人連れでしょう。但し19日付記事で訂正されて、この2人は「中沢」兄弟であることが分かります。
 この4人が「旧噴火口付近」で発見されているのですが、この旧噴火口は、中央火口丘である釜山(2568m)にほぼ埋められていて、西側の前掛山(2524m)を最高峰とする連なりと、東側の、峰の茶屋から登って来ると到達する2450mの等高線の峰が残存しています。いずれこの内側、火口から500m以内の山頂部で発見されたのでしょう。
 浅間山の山頂火口(釜山)や前掛山の様子は、動画サイトにいくつか挙がっています。航空写真はYahoo!地図が鮮明で、Google Earthは残雪の時期、地理院地図は継ぎ接ぎでやや鮮明さを欠きます。とにかく、規模にもよりますがこの辺りにいて逃げ延びるのは非常に困難でしょう。とりわけこのときは12,000mの上空にまで達した噴煙のほぼ直下にいて、2km以上離れた湯の平でも森林火災を起こすほどの灼熱の火山弾が、14分間にわたって降り注いだ訳ですから、とても助かるとは思えません。浅沼氏が下山出来たのは直撃弾を免れたからだろうと思いますが、全身火傷というのは着衣が燃えてしまったのでしょうか。
 これとは別に南東麓の沓掛の少年を案内役にして登った東京都墨田区吾嬬町西7丁目(現・墨田区八広)の工場主と弟かと思われる同姓の少年、それに従業員らしき2名の、5人連れが遭難しています。沓掛は現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢ですから、やはり峰の茶屋から登ったように思われるのですが浅沼氏は目撃していないようですし、山頂部で見つかったのではないのでしょうか。或いは、まず汽車で小諸に出て、小諸から湯の平を経て浅間山に登り、帰途を峰の茶屋から沓掛に下りるつもりで、すなわち登りより下りの道案内として、地元の少年に案内を頼んだのかも知れません。そうすると森林火災を起こした湯の平から前掛山に到る山腹で遭難したのかも知れません。(以下続稿)