瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岸凉子『日出処の天子』(14)

敏達天皇十四年(4)
・文庫版第一巻204頁6コマめ、三輪君逆暗殺直後の朝参の場面が202頁から204頁3コマめまであって、4コマめに枯葉が枝から飛ばされる様子を描いたコマを挟んで、5コマめ、蘇我毛人が「ええ わたくしの嫁!?」と驚くのに対して6コマめに父の蘇我馬子が「そうだ もうすぐ17歳になろうというのに/まったく女のおの字も出んからこのわしがみつくろっておいたわ」と答え、206頁4コマめまで会話が続くが、蘇我毛人は厩戸王子より4歳年上だから、年末に近い、十一月かと思われる頃に「もうすぐ17歳」というのはおかしくない。
用明天皇元年(1)
 敏達天皇十四年(585)と思われるのは文庫版第一巻232頁1コマめまでで、2コマめに夜空に雪の舞う、時間の経過を表すコマがあって、ここで翌年になったものと思われる。232頁4コマめ〜233頁(5コマ)、最近朝参に姿を見せない厩戸王子について蘇我馬子・毛人親子が話す場面、232頁6コマめ、蘇我馬子の発言に「まったく13歳になったばかりの王子が大人も読めぬ教本を解くのだから…」とある。年が明けたばかりなので「13歳になったばかり」ではあるのだが、1月30日付(07)に指摘したように満年齢の発想というべきで、やや違和感がある。
 それはともかく、厩戸王子が数えで十三歳になるのは用明天皇元年(586)で、ここまでを敏達天皇十四年(585)とする計算で良さそうに思われるのである。
用明天皇二年(1)
 しかし、読み進めて行くにつれ、どうも、用明天皇元年(586)ではなく用明天皇二年(587)らしいことに気付かされてしまう。
・文庫版第一巻235頁2コマめ〜239頁4コマめ、前年に秦河勝から、224頁2コマめ〜226頁1コマめで「先々代の百済王であった聖明王の時の宰相の息子」である「舎人」として雇うよう頼まれていた蘇我毛人の許に、その若者・調子麻呂が訪ねて来る。237頁1コマめ、「みれば若い/いくつになられた」と尋ねる蘇我毛人に対し、2コマめ「19 いえ 20歳になりました*1」と答えるが、毛人は(うそをついている 19でもあぶないところなのに)と思うのである。
 ちなみ当時の百済の君主は聖明王(在位523〜554)戦死後に即位した息子の威徳王(在位554〜598)だから「先々代」ではない。
 続いて、文庫版第一巻239頁6コマめの蘇我毛人の心内語からして同じ日の晩のことと思われるが、7コマめ、厩戸王子の「毛人」という呼び掛けを聞き、毛人は池辺の宮に厩戸王子を訪ね、ともに「苦界奥底の魑魅魍魎」を見る場面となる。271頁3コマめまで池辺の宮で、271頁の残り3コマは蘇我毛人が、272頁1〜4コマめは厩戸王子が、このこと振り返っている(らしき)場面である。
・文庫版第一巻272頁5コマめ〜274頁6コマめ、石川の尼3人に乱暴を働こうとした物部の奴を蹴散らした、調子麻呂を始めとする蘇我の舎人たちが、蘇我毛人の許へ尼たちを連れて来る。この尼について272頁9コマめ〜273頁1コマめに、双辺の枠に丸ゴシック体で解説がある。

これより3年前の五八四年 馬子の命により石川に寺がもうけられ3人の少女がさし出された
善信尼 善蔵尼 恵慶尼といい 日本で最初の出家者である


 敏達天皇十三年(584)の「3年」後なのだから用明天皇二年(587)ということになるのだが、ここまでの、秦河勝に調子麻呂のことを頼まれてからの流れは一連のもので2年も経ったようには見えない。まだ用明天皇元年(586)のはずである。
 しかしその次の場面で、やはり物語の中の時間が用明天皇二年(587)であることが、はっきりする。(以下続稿)

*1:ルビ「はたち」。