瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岸凉子『日出処の天子』(21)

・連載当時の熱狂(1)
 この漫画が連載されたのは私の中学1年生までで、少し前まで『ドラえもん』を読んでいた私は少女漫画など読む習慣もなく、姉もいませんでしたし、友人にも妹はいても姉はいなかったのでこういう漫画を読む家族がいない訳で、要するに接点がなかったので連載時の記憶は全くありません。――いえ1つだけ、当時読んでいた『ドラえもん』にクリスチーネ剛田ジャイ子)の「日出処は天気」という漫画の扉絵が、「ペロペロキャンディキャンディ」と並べて出て来ますので、流石にこういう少女漫画があるんだくらいは思ったろうと思うのです*1
 当時の熱狂ぶりについては2月6日付(11)に引いた小長井信昌『わたしの少女マンガ史』にも回想されていました。
 白泉社文庫版の「解説」では、第五巻310〜314頁(頁付なし)の、南端利晴わんだーらんど店主)「解説/まんが市場の「成熟」が、いま問われる」の冒頭が、この辺りの事情を良く語っています。310頁3〜8行め、

 84年12月、新書判『日出処の天子』11巻(完結巻)が発売された。同時に、読者のそれぞ/れの本棚で、ひとつの熱狂が、魅惑的な作品との出会いと、その展開にわくわくさせられた/至福の時間が完結した。少女まんが雑誌「LaLa」で連載が始まって5年。この間、少女/だけでなく、目敏*2いまんがファンはこぞって「LaLa」の発売日を心待ちにし、単行本の/新刊を待ちわびた。また、それでも飽き足りない読者は、梅原猛の『隠された十字架』を読/み、法隆寺へ足を運び、さらに図書館へ通い、関連書籍を読みあさったりもした。


 しかしながら、これまでもいくつか挙げて来たように、当事者の回想でありながら当てにならなかったという例は少なくありません。これがそうだという訳ではありませんが、やはり回想は回想なのであって、どうも、そのまま受け取って良いのかどうか、何処かに色が付いてしまっているのではないか、――という気分に(疑り深い私はどうしても)させられてしまうのです。
 そう言えば、昔の職場の同僚に「王子が初恋の相手でした」と言う女性がいましたが、私より3つ年下なので、やはり連載時に魅了されたのとは違うのでした。(以下続稿)

*1:明確に記憶しているのではないが、ネットで画像検索してヒットした絵には確かに見覚えあり。

*2:ルビ「めざと」。