瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(2)

 5月28日付(1)の続き。
 7〜17頁、上笙一郎「解説」は、12頁13〜14行め「‥‥原本の編者や書誌的事項に」ついて、「‥‥、まず編者の河本正義に/ついて見れば、兵庫県在住の民俗学研究者であった‥‥」として、昭和戦前の兵庫県民俗研究会の機関誌「兵庫県民俗資料」、近畿民俗学会の「近畿民俗」に摂津・播磨地方の民俗報告を毎号のように載せ、「旅と伝説」等にも少なからぬ寄稿をしていることを指摘し、13頁3〜4行め「 すなわち、兵庫県における民俗学研究の草分のひとりであったと評価されて然るべき人なのだけ/れども、その生い立ちや経歴はあきらかでない。‥‥」として、平凡社版『日本民俗誌大系』第十一巻(未刊資料2)に河本氏の「淡路沼島雑記」が採られているが、6〜7行め「‥‥、稿を選ばれた三十人近い研究者のいずれの人/も略歴と肖像が掲げられているというのに、残念ながら河本のそれは載せられていないのである。」と、昭和50年(1975)頃の民俗学者に、既にその経歴を知る人もいなかったらしいことを指摘する。
 そこで上氏は別の河本氏の著書から判明する事実を述べるのだけれども、それを紹介する前に、Windows 95以前の上氏の調査時点から20年を経て、当時は殆ど使えなかったインターネットで今はある程度調べられるので、ネット検索で居ながらにして調べた結果を、まず提示して置こう。
 「河本正義」で検索してみると、池部宗七(1894.8.10〜1936.4.2)という人物の略伝がヒットした。関西学院学院史編纂室 編集「関西学院史紀要」第八号(二〇〇二年三月二五日発行・学校法人関西学院・214頁)169〜189頁、井上啄智(関西学院大学経済学部教授)執筆の「シリーズ 関西学院の人びと」のうち、171〜176頁「三 池部宗七(石川乙馬)」の「Ⅱ 略歴・作品一覧」の173頁上段9〜12行め「一九二〇年/一一月」条に、「友人で関西学院中学部教諭であった荘/司直治の紹介で関西学院中学部国漢科/の担当教員となる。長田神社北の借家/に住む」とあり、句点の脇に附されている注(10)を見るに、175頁下段7〜12行め、

(10)『関西学院高中部百年史』(一九八九年)によれば、池部/
   の担当は「国漢」ではなくて「国語」となっている。な/
   お、この頃の教え子には、児玉善遠(『アララギ』同/
   人、河本正義(神戸新聞)、高橋信彦関西学院中学部
   博物・理科担当教諭、在任期間:一九二七〜一九四一、/
   一九四七〜一九七一)などがいる。

とある。そこで今度は「神戸新聞」を加えて検索すると、「渋沢社史データベース」の「(株)神戸新聞社『神戸新聞五十五年史』(1953.07)」の年表がヒットした。
昭和14年(1939)条、
「6月22日|河本正義天津へ特派出発。」
「8月4日|河本特派員北支戦線より帰った。西松、河本両特派員の報告講演会を大開校で開いた。」
 ちなみに西松特派員のことは「6月28日|西松五郎満蒙国境へ特派のため出発。」また「7月31日|西松特派員満蒙戦線より帰った。」と見えている。
「10月31日|河本正義再び中支へ特派出発。」
「11月28日|河本特派員中支視察講演会を大開校で開いた。」
昭和18年(1943)条、
「12月1日|河本正義の社史編纂委員主査を免じ、本城為圭を同主査とした」
 代わった本城氏は、昭和19年(1944)条「5月1日|六.三ポイント扁平十五字詰十六段制実施、標題最大三段程度となる。方城正市を社史編纂委員主査として本城為圭を休職とした。」とあって、丁度半年で辞めさせられたようだ。
 他に「河本」で検索してヒットするのは昭和28年(1953)4月20日条の代議士河本敏夫(1911.6.22〜2001.5.24)のみである。
 神戸(兵庫県)という場所と、時期は合致する。大正10年代に中学生であったとすれば、明治40年頃の誕生と見当を付ければ良かろうか。(以下続稿)