瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(07)

・朝鮮烏羽玉譜(2)
 続きを引くべきであるがここで少し考証めいたことをして見る。
 谷崎潤一郎(1886.7.24〜1965.7.30)の「秦淮の夜の奇望街」については、小谷野敦公式ウェブサイト「猫を償うに猫をもってせよ」の「文豪たちの詳細年譜」の「谷崎潤一郎 詳細年譜」の「30代」、「1918(大正7)年 / 33歳」11月条に、

20日、この頃、船で南京に到着、石板橋南の宿屋(宝来館か)に滞在。
・南京滞在中、夫子廟、秦淮河を見学、秦淮で画舫に乗る。夜、利渉橋近くの長松東号で南京料理を食し、妓女を買おうとし、揚州生まれの花月楼という妓女を見出すが、値段が高かったので別のを探すといいのがおらず、素人女を買う(「秦淮紀行」)。
・22日、南京より鉄道で蘇州着、日本租界に宿泊。

とあり、作品としては「1919(大正8)年 / 34歳」2月条、

・2月、「秦淮の夜」を『中外』に、「画舫記」を『中央公論』に掲載(「蘇州紀行」と改題)。


 同年3月条に、

3月、「南京奇望街(「秦淮の夜」続編)*1を『新小説』に掲載。

と発表されている。
 「秦淮の夜」は、芥川龍之介(1892.3.1〜1927.7.24)が翌大正9年(1920)に「中央公論」七月号に発表した「南京の基督」の末尾の謝辞に、

本篇を草するに當り、谷崎潤一郎氏作「秦淮の一夜」に負ふ所尠からず。附記して感謝の意を/表す。

と、誤記されて見えている*2
 とにかく、登場人物の会話から見て「秦淮の夜」が発表されて、さほど時を経ないうちのことということになろう。
 そこでもう1点、時期を考える手掛りになりそうなのが「京城放送局」である。
 Wikipediaに拠ると日本のラジオ放送は、大正13年(1924)11月29日に社団法人東京放送局JOAK)設立、大正14年(1925)1月10日社団法人名古屋放送局(JOCK)設立、2月28日社団法人大阪放送局(JOBK)設立という準備段階を経て、3月22日に東京放送局がラジオ放送を開始している。そして大正15年(1926)11月30日に大日本帝國で4番めの放送局として設立されたのが京城放送局*3(JODK)で、試験放送開始は昭和2年(1927)1月20日、本放送は2月16日に開始されている。
 すなわち、この「晩秋」は昭和2年(1927)以降と上限を定められるのである。(以下続稿)

*1:鍵括弧閉じがないのは原文のママ。

*2:引用は芥川龍之介『夜來の花』(大正十一年三月十一日印刷・大正十一年三月十四日發行・定價金貳圓五拾錢・新潮社・347頁)に拠る。135〜160頁「南京の基督」の末尾、160頁4〜5行めに4字下げでやや小さく添えてある。

*3:2019年4月24日追記】「京城放送協会」としていたのを改めた。