瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(17)

 7月7日付(13)の続き。
・朝鮮烏羽玉譜(09)
 昭和初年に正岡氏が京城の国一館で会った妓生・李花仙であるが、次の本に登場する李花仙が、同一人物なのではないかと思われる。
朴哲彦水沼啓子 訳『日韓交流 陰で支えた男―朴哲彦の人生』2005年6月13日第1刷発行・定価1,800円・産経新聞ニュースサービス・303頁・四六判上製本

日韓交流 陰で支えた男―朴哲彦の人生 (産経新聞社の本)

日韓交流 陰で支えた男―朴哲彦の人生 (産経新聞社の本)

 頁付があるのは本文のみで、その前にアート紙の扉、本文共紙の口絵写真3頁、朴哲彦「日本語版に寄せて」3頁(「二〇〇五年五月」付)、「目 次」7頁、朴哲彦「はじめに」(「二〇〇四年五月二十日」付)、趙甲済(『月刊朝鮮』編集長)「「狂暴の時代に失った話」」3頁があり、本文の後に水沼啓子「訳者あとがき」9頁と「著者・朴哲彦の経歴」1頁がある。
 日本語版の標題はちょっと奇妙であるが「日本語版に寄せて」の冒頭、1頁め2行めに、

 私は昨年、韓国で自身の回顧録『我が人生 歴史の軌跡』(原題)を刊行した。‥‥

とあるように、著者・朴哲彦(1926生)の付けたものではない。
 朴氏は戦後、父の勧めで北朝鮮を脱してソウルに移り、英語力を活かして逓信部保険局に採用され、そこで日本留学経験のある上司に勧められて昭和23年(1948)3月に日本に密航し、そこでも英語力が物を言って昭和24年(1949)、東京の連合軍総司令部に採用され第二局の所属となる。そこで昭和25年(1950)6月25日、朝鮮戦争の開戦を迎える。その頃、八木信雄に紹介され、さらに数日後にその師匠である安岡正篤(1898.2.13〜1983.12.13)の知遇を得ている。――ように読めるのだが、71〜199頁「第二章 而立の檄流」92頁7行め〜100頁9行め「◆安岡正篤」の節に安岡氏との初対面のことを綴って、昭和28年(1953)10月15日の「久保田発言」についても論じ合っているので、その年末のことのようである。
 そして、99頁2〜4行め、

 話題が軽い方向に流れ、彼の回想談が始まった。
「長い年月が経ちましたが…」
 彼の視線が遠い過去に遠ざかっていった。

として安岡氏は李花仙の思い出を語るのである。(以下続稿)