瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(18)

・朝鮮烏羽玉譜(10)
 安岡氏の回想とそれに対する著者等の反応を抜いて置こう。99頁5行めから、この節の末尾(100頁9行め)まで、

 ソウルの鐘路にある明月館で夕食の接待を受けたことがあった。その場に端正な美貌の妓/生(芸者)が同席した。名前を李花仙といった。安岡のために席を用意した人が紙と筆、墨/を持ってくるように言い、主客である安岡に揮毫を求めた。安岡のために紙と筆と墨を用意/したのは、同席した妓生の李花仙だった。安岡の揮毫が終わり、同席者の賛嘆が止んだ後に、/揮毫を所望した人が今度は李花仙に一筆したためて安岡の講評を受けてみろと言った。主客/である安岡も一緒になって薦めた。李花仙はちょっと部屋から出て行き、ため息混じりの深/呼吸をしてから入ってきた。正座し、白紙に漢字二字を書いた。酔夢。「酒に酔う夢うつつ/の夢」だった。
 その筆致は安岡を魅了した。
 一瞬、話を止めた彼は目を閉じた。
 再び開いた彼の目の焦点は、遠い道をさ迷っているようだった。
「愛があった。美しさと悲哀があった。光が、そして陰があった」【99頁】
 安岡の熱を帯びた描写がふと切れた。
 遠ざかった過去を回想していた。
 彼がする追憶の紐は切れず、しばらく誰も口をきかなかった。
 安岡の口が開いた。
「韓国の妓生、論介(文禄の役のとき、日本の武将を抱きかかえて南江に身を投じた義妓)/の話はフィクションという人もいます。しかし私は李花仙を見て、論介の存在を信じるよう/になった」
 良い晩餐だった。年長の偉い人と向かい合う席で、こちらを楽しく気楽にさせてくれるこ/とが彼の人柄を測る尺度になるのではないか。


 論介のことは7月7日付(13)に紹介した川村湊『妓生 「もの言う花」の文化誌』53〜83頁「第二章 妓生列伝」の76頁5行め〜83頁(15行め)「三 義妓・論介」に取り上げられている。
 朴氏の本にはもう1度、李花仙が登場するのだが、その前に、正岡氏の著述に戻って置こう。

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 正岡氏が「二十有余年」後の昭和27年(1952)に、7月6日付(12)に抜いたが「私が睦じくした才妓李花仙も、‥‥みんな兵火に氓びてしまつたらう。」と書き添えたのは、もちろん朝鮮戦争を指している。
 当時、前年夏から膠着状態に陥り、同年1月には李承晩ラインが設定されるくらいになっていたものの、それまでの間、ソウルは昭和25年(1950)6月28日に北朝鮮軍により陥落、9月28日に国連軍が奪還、昭和26年(1951)1月4日に中国人民志願軍と北朝鮮軍により再陥落、3月14日に国連軍が再奪回と、争奪戦が幾度となく繰り返されていた。
 しかし、どうやら李花仙は朝鮮戦争を生き延びていたようである。(以下続稿)