瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(20)

・朝鮮烏羽玉譜(12)
 安岡氏はここでも同席の人たちに李花仙との思い出を語るのだが、7月13日付(18)の引用*1よりも重要な場面が回想されている。292頁15行め〜294頁13行め、

 安岡の同座の人のために、李花仙を話題の種にすることにしたようだ。
「この方の話をちょっとするべきだ」【292頁】
 安岡の話はこうだった。それは一九三〇年代のこと、韓国併合を押し切った日本は韓国統/治のために知略を尽くしたが成果もなく、十余年が過ぎた。韓国人の心を掴めないのが原因/だった。日本は一視同仁の政策を強調し始めた。韓国人と日本人間の差別的な意識と制度を/改善して、二つの民族の渾然一体化を目標にした。(筆者の注:これは日本人の安岡の見解/だ。筆者の見解は彼とは違う)。
 当時の朝鮮総督府には池田清が警務局長としていた。一視同仁政策の円満な遂行のために/は韓国人、崔麟の参加が必要だが、彼を説得するほどの人材がないので、安岡が行ってそれ/を成功させてくれという要請があった。安岡は使命感を持ってソウルに来た。
 安岡の懇請で崔麟が明月館に招待された。すでに安岡は来ており、親交があった李花仙が/専従妓生のように彼らを迎えた。二人の対談は長かった。長々と十時間を超える論争になっ/た。明け方になり、料亭側が準備した寝床についた。次の日の夜もただ二人の対座は続いた。/論争はまた長くなり、明け方になってまた料亭が作ってくれた場所で少しの間眠った。李花/仙は料亭で寝食をとりながら、二人の対談に不便がないように世話を続けた。三日間の夜が/きた。崔麟も安岡も気力が尽きた。しかし崔麟と安岡の関係はそれぞれ別の利害を持つ交渉/者ではなく、学問的な理想、理念を共にする同志の間柄になっていた。
 崔麟が紙と筆墨を所望し、李花仙がそれを備えた。崔麟は筆を取り、半紙に「時中会」と【293頁】書いた。時中という字句は朱子の中庸の徳の講釈から来た言葉だ。事物の大小長短は、その/どちら側にも偏ることなく、時の早晩はその中間を選ぶという意味の語句である。
「会の名称はこうしましょう」
 崔麟が安岡に話した言葉だった。安岡は、崔麟の揮毫を見ながら、首を縦に振った。(筆/者注:恐らく釈然としなかっただろう)。そばで紙と筆墨を取り込んでいた李花線が背を向/けて頭を垂れていた。かなりの時間が経ったのに、李花仙の姿勢はそのままだ。頭を下げて/肩は細く揺れて…しばらくして彼女がしくしく泣いていることが分かった。安岡は驚いて、/なぜ泣くのか彼女に尋ねた。李花仙は涙を拭きながら、髪を整えた。そして振り返った。
「安岡先生。ついに私たちの崔先生の心を奪われましたね」
 李花仙の表情は泣いているのか笑っているのか識別することができなかった。
「私は韓国に関する話が出てくると、好んでする話があります。『韓国に義妓、論介は実在/した』ということです」
 安岡の話が終わると、席はしばらく静まり返っていた。


 安岡氏が李花仙と知り会った時期だが、池田清(1885.2.15〜1966.1.13)が朝鮮総督府警務局長であったのが昭和6年(1931)6月26日から昭和11年(1936)4月22日まで、そして「致知出版社―安岡正篤先生のページ「安岡正篤「一日一言」」」の「安岡正篤年譜」を参照するに、「1932(昭和7年)35歳」条に、

6月 朝鮮総督府の招きにより渡鮮。以来、朝鮮統治に協力することになる。

とある。このとき李花仙を識ったのであろう。そして「1934(昭和9年)37歳」条に、

5月 朝鮮総督府および満州国政府の招きで1か月余満鮮に渡り、日系官吏や満鉄職員らに王道哲学を講義。

とあるのが、時期的に見て、天道教新派の指導者・崔麟(1878〜1958?)を中心に、昭和9年11月結成されることになる時中会を準備するものであったろう*2。ちなみに終戦までの安岡氏の渡鮮は、「1943(昭和18年)46歳」条にもう1度、

4月 朝鮮総督府の招きで渡鮮、知事に東洋政治哲学を講義。

とあるのが、前回問題にした「三十年の歳月」の起点であろうか。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、昭和53年(1978)に満70歳として、明治41年(1908)生と仮定しよう。そうすると満19歳か20歳の頃、正岡氏に会い、満24歳頃に安岡氏に会った計算になる。同じ京城であり、同一人物として問題ないのではないか。(以下続稿)

*1:2016年3月20日追記】「の引用」を追加。引用中の「製作」を「政策」に訂正。

*2:もちろん、年譜にない渡鮮がなかったとは云えない。載るものに当ててみるとこうなる、というまでである。