瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

吉田秋生『櫻の園』(3)

 それはともかく、一昨日の話の流れで私が「あっ」と思ったのは、――「Vol.3 花酔い」で、新学期になって急に親しくなった杉山さんに、新入部員勧誘の席を昼食で抜けた際に、倉田さんが好きなことを言い当てられてしまった志水さんは、その日の帰りに倉田さんに似た初恋の従兄に再会して、小6のときに自分を萎縮させた無神経な一言について直接確かめようとするのだが、従兄は覚えていない。傷ついてふらと学校に戻ってしまった志水さんは、杉山さんに声を掛けられて再び2人で満開の桜の下で語り合う。そして意を決した志水さんは、杉山さんを校門に待たせて校舎に入り、127頁(文庫版131頁)、倉田さんの教室の教卓にある座席表で席を確かめて、倉田さんの机に何か書くのである。そして「Vol.4 花嵐」で、翌朝登校した倉田さんが、132頁(文庫版136頁)1コマめ「あれ」と気付く。3コマめの心内語「机に何か書いてある…」そして4コマめ、楷書体で、「Vol.3 花酔い」の最後、128頁(文庫版132頁)では1行で示されていた「風に散る/花橘を袖に受けて/君が御跡と思ひつるかも」が再び示される。133頁(文庫版137頁)2コマめに筆跡も示されているのだが、1〜3コマめ、丸ゴシック体でこれを見た倉田さんの心内語が吹出しなしで鏤められる。

倉田:(あ…これたしか 万葉集だ… たしか こんな歌があった気がつかなかった… 自分の机なのに誰が書いたんだろう 忍ぶ恋の歌 消えかけた細いえんぴつの線 いつから ここにあったのだろう)


 見て『万葉集』だと分かった(という設定な)のである。そして134頁1〜3コマめにも同様に

倉田:(いったい 誰を思って書いたのか忍ぶ恋――いいな そういうの これを書いた人って きっとすてきな人にちがいない)


 倉田さんは自分に対するものだとは気付いていない。3月までこの教室にいた卒業生の「誰」かが、「忍ぶ恋」のまま終わろうとする自分の恋を、『万葉集』詠み人知らずの古歌に託して書き付けたものと判断したのであろう。そして倉田さんは「そういうの」を「いいな」と憧れ、「きっとすてきな人に違いない*1」と思うのである。
 これは、特殊な例だろうか。いや、私が中学高校の頃まで、俳句と短歌は文語で作るものだと思っていた。俵万智『サラダ記念日』が文語の牙城を壊滅に追い込んだのである。『サラダ記念日』刊行は昭和62年(1987)5月で、当時の資料も若干あるのでそのうち記事にするつもりだが、……これも早稲田か。
 まぁいろいろな要因があったろうとは思うんだけど、それは追々考えて見ることにして、今は、昭和末年までかろうじて保たれていた、日本文化の伝統に繋がろうという心の動きが、平成に入って若者の胸から消えてなくなってしまった事実を指摘するに止める。――国文学関係者及び都知事に無能呼ばわりされた文部科学省関係者は、こういうのを、本当は恥じないといけないのではないか。*2(以下続稿)

*1:古文に訳せば「良き人なるべし」。――「なるべし」については、2011年5月11日付「柳田國男『遠野物語』の文庫本(10)」及び2011年5月12日付「柳田國男『遠野物語』の文庫本(11)」に述べた。……昭和末年まではそれなりに古文が読めたはず、と云うつもりなのだが、ここで批判した吉本隆明の書いたものを見ていると何となくfeelingで読んでいた人も少なくなかったかと思われる。それでも、好い加減な解釈であっても読めたつもりでいた(つもりになれた)ことが、今とは違うような気がするのである。

*2:2017年11月17日追記】その後「映画「櫻の園(90年版)」ファンサイト」が開設されていることに気付いた。そこで市川森一『万葉の娘たち』との関連が指摘・検討されていたため、私としてはこんな感想を述べる程度に止めるべきと思ったのだが、残念ながらこのファンサイトは削除されており、今となっては僅かに「archive.is」にて末期(2016年4月17日)の「ホーム」を閲覧出来るばかりである。