瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎『抱茗荷の説』(4)

 昨日の記事の末尾、梗概の改定案に山下氏の「復讐のため」と云う表現をそのまま使い回していましたが、読み直すうちに「復讐」が目的であれば、幼い娘を同行させる必要はなかったろう、と思えて来ました。以下「抱茗荷の説」の引用は論創ミステリ叢書15『山本禾太郎探偵小説選Ⅱ』に拠ります。まず、266頁8〜15行め、

 父の死後、そんなに裕福でもなかった家は急角度で没落の淵に急いだものらしく、耕す/田地も無くなったので作男に暇を出し、広い家の中には祖母と母と、君子の三人だけがさ/びしくとり残された。そしてついに米塩の資を得るために母は日夜機*1を織らねばならなか/った。暮らしは日一日と苦しくなり、このままでは三人が餓え死ぬよりほかなくなったの/で、母は一度国へ帰ってくると、祖母一人を家に残して発足したという。
 父の変死から家の没落、母が国へと言って発足するまでの話は、これも長い間にきれ/ぎれに、あとさきの順序もなく聞いた話で、今では断片的にしか君子の記憶に蘇生*2って/来ないのである。‥‥

とあって、山下氏は触れていませんが、この帰郷は父の毒殺後すぐに行われたものではなく、経済的に行き詰まって漸く発足しているのです。それから269頁1〜2行め、母は門の前で「君子に、お前はしばら/くここに待っているのだよ、お母さんはすぐに出てくるから、と言って」実家に入ったまま、ついに出て来なかったのですが、――自分を殺そうとしたこと、身替わりで夫が死んだことを言って、幾らかでもお金を出させよう、そのくらいのつもりだったのではないでしょうか。そうでないと、娘を連れて来たこと、すぐに用件が済むように言っていることと、合わなくなってしまいます。
 この辺りの事情は後でまた検討したいと思っています。
 ここでまた山下武『探偵小説の饗宴』に戻りましょう。
 山下氏は梗概に続いて、本文を一部引用しています。少し気になるところがあるのでこれも抜いて置きましょう。187頁1〜17行め*3と188頁の10行め*4まで。187頁の字数が少ないのは下部に、下に明朝体横組みで「「抱茗荷の説」挿絵(「ぷろふいる」昭12年1月号から)」とある、題と著者名の入った単色イラストがあるからです。桃割れの美少女と稚児輪に結った日本人形が描かれており、なかなか趣があります。なお踊り字を「/\」で示したので、改行位置は「|」で示しました。

《この家に傭は|れてきてから君|子の身体のどっ|かに潜んでゐた|記憶が一つ/\|浮きあがってき|た。大名のお城|のやうな大きな|門や、玄関の脇|に吊ってある塗|駕籠、龍吐水の|箱など、それは|いつも事実が想像より醜いものであるや|うに、埃にまみれて見るかげもなく損じては|ゐるが、夢のやうに君子の記憶の底に沈んで|ゐるそれに違ひはなかった。ことに抱茗荷の紋をちりばめ|た大名の乗るやうな黒塗の駕籠を見上げたとき、深い靄*5が|一度に晴れるやうに、抱茗荷の紋がはっきりと思ひ出せた。それは、門のなかにはいって行く|母の姿を見送ったとき、母が被っていたお高僧頭巾の背中に垂れた端に染出されていた大きな|紋であった。母の死骸が浮いてゐた、と記憶する池の畔へも行って見た。そこには、みごとに|花をつけた椿の枝が水の上に覆ひ被さり、落ちた椿の花がすこし赤茶気た、しかし琥珀*6をとか|したやうに澄んでいゐ浅い水底に沈んでゐた。まだ水に浮いてゐる花もあった。じっと水を見|てゐるとお高僧頭巾を被ったまゝの母の美しい死骸が、そこにすきとほって見えるやうだった。|こんな浅いところで死ねるだらうか、ふとさう思った君子は、たった一人の子である自分を門|の外に待たしたまゝ母は自殺することが出来ただらうか、お高僧頭巾の遍路が金のお札*7を飲ま|さうとしたのは父ではなく母であった筈だ。母は殺されたのではないか――母は殺されたのだ|――さう思ふと今まで夢のやうに思ってゐたいろいろの謎が少しづゝ解けるやうに思はれる》


 この部分は、『山本禾太郎探偵小説選Ⅱ』275頁14行め〜276頁11行めですが、表記以外の異同は、276頁2・6・9行めの3箇所に見える「お高祖頭巾」、276頁2行め「背中に垂れたところに」、276頁7行め「死ねるだろうかしら、ふとそう思った君子は、」の3点で、青空文庫は3点めが「死ねるだろうかしら、ふと君子は思った。」となっています。
 促音を「つ」でなく「っ」と小さくしているのは、戦前の雑誌「ぷろふいる」からの引用でもそうなっていますから、引用に際しての山下氏の独自方針なのでしょう。この他にも誤写があるようですが、右に挙げた3点の異同は単純な写し間違いや誤植の類ではなくて、山下氏は所蔵していた単行本『抱茗荷の説』に拠ったのだと見たいのです。(以下続稿)

*1:ルビ「はた」。

*2:ルビ「よみがえ」。

*3:冒頭1行分空白。

*4:その次に1行分空白。

*5:ルビ「もや」

*6:「こはく」

*7:ルビ「ふだ」。