瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(11)本文①

 10月16日付(09)の続き。
 まず、10月15日付(08)に見た、昭和9年(1934)1月1日発行の「週刊朝日」新年特別号(第25巻第1号)について、若干の補足をして置きましょう。
 【 223 】頁は太い破線で囲われた「編輯後記」は、5段組で収録作品や企画について編輯サイドからコメントしています。1〜2段め、2段抜き(7行分)で松の枝をあしらった手書き文字の題字「編輯後記」があって、1段め11行めまで、

 本誌で募集した第二回懸賞事實小説は應募作品第一回に倍する盛/況で、從つて佳作も多くこれが選/に當つた編輯同人は、非常な喜び/と共に、苦しみをなめた譯です。/嚴選の結果は別項に發表した通り/で、一、二等とも動かすべからざ/る眞實性と、潑剌たる生氣とをも/つた事實小説としての強味を如實/にした作品が得られ卷頭を飾りま/した。御熟讀を切望します。

とあります。
 【 12 】頁、右側中央に黒の長方形(11.5×1.2cm)にゴシック体太字白抜きで[懸 賞事 實 小 説一 等 當 選]とあり、左側には大きく毛筆で「東太郎の日記〈米島 清/勝田 哲〉」とあります。その間に10人ほどの客が並んでいる立派な芝居小屋の入口が描かれていて、左右には「富士雪子嬢へ」「富士雪子さんへ」との幟が立っています。絵と題字は日本画家の勝田哲(1896.7.8〜1980.11.17)の手になるものです。 
 【 13 】頁から本文。上部、中央に手書きで「説小実事選入賞懸」とあって上下に幅0.2cmの灰色の太線(7.2cm)があり左右に頭が楕円で中央に穴が空きそこに糸が通してある鍵で、先端の片側に2つ出っ張りがあって、右の鍵は出っ張りが上を、左は下を向いていますが、ほぼ同じ形です。ともに、先端側の出っ張りが大きく、頭に近いものはその半分くらいの大きさです。
 さて、「選評」にもあったように「日記体で描かれて」いるが、日付は全て「×月×日」で、1日分が独立して前後に1行弱ずつの空白がある。そこで、以下、1日分ずつ紹介して行くことにします。
 今回は冒頭、上段3行めまでの前置き(2字下げ、下に3字分ずつ余白)を抜いて置きましょう。

   これは、桃中軒雲右衛門、吉田奈良丸とともに並び謳はれ*1
  た浪花節語り京山大圓の、顧問みたいなことをしてゐた私の*2
  友人、山木東太郎の日記から拔萃したものである。*3


 桃中軒雲右衛門(1873.5.5〜1916.11.7)二代目吉田奈良丸(1879.7.27〜1967.1.20)と並び称された「京山大圓」とは、10月5日付「山本禾太郎『消ゆる女』(1)」でも触れた初代京山小圓(1877.3.15〜1928.10.30)で間違いないでしょう。ここで10月6日付(01)に引いた山本氏の回想「あの頃」で問題になっていた「あの作者の言葉」を見て置きましょう。
 【 14 】頁上段中央の単郭(8.1×5.0cm)に、

 筆者の言葉 事實も事實、この事實はもつといゝのです。私の筆が/その事實のまゝを描くに足りないのが殘念です。それに百枚や二百枚/では書きゝれぬほど豐富な内容を五十枚に盛つたので、すこし窮屈な/ものになりました。人と所は/悉く實在、たゞ人氣商賣です/から劇場名と人の名は變名に/しました。
 略歴 浪花節語りを志し、/さる大家に弟子入りす。持つ/て生れた筆マメが災し、それ/にはなれず、ネタを書いたり直したり、そのまゝ一座の食客たること/七年、今では足を洗つてまじめな勤人。

とあります。4〜10行めの字数が少ないのは上部に顔写真(3.5×2.6cm)があるからで、帽子に眼鏡、やや上を向いた右側面を撮したもので、服装は黒くなっていてよく分かりません。写真の下に横組みで「氏  島  米」とありその下に太い破線(1.5cm)があります。(以下続稿)

*1:ルビ「とうちうけんくも・ゑもん・よしだならまる・なら・うた」。

*2:ルビ「なにわぶしかた・きやうやまだいゑん・こもん・わたし」。

*3:ルビ「いうじん・やまきとうたらう・につき・ばつ」。