瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(12)本文②

 それでは日記の1日めの本文を紹介します。【 13 】頁上段4行めから【 15 】頁上段13行めまで。
 用字はなるべくそのままにしようと思ったのですが、表示不可能な文字及び外字の一部は検索の便宜を考えて新字にしました。順に「羽・黒・急・縁・者・節・説・要・噛・顔・配・前・挿・虐・戻・尊・扇・半・嫌・兼」です*1
 ほぼ総ルビですがルビ付活字で組んでいるらしく、連濁などで濁るはずのところが清音のままに、反対に濁音が一般の字の読みが清音になるはずのところが濁音になっているのはそのためです。

 ×月×日
 みどりや旅館の内玄關應接間の籐椅子で新聞を見てゐると、表の間で/話し聲がする。*2
「おかみ、僕はネ、白い絽の羽織に黒い紋をつけて、夏の式服にしてゐ/たんだが、昨夜高砂座へいつたら浪花節の京山大圓が同じ羽織を着てゐ/る。あんな下等なヤツが着てゐるのを見て、急にイヤになつたから黒に/染めやうと思つてゐるんだ」*3
 いくら自分が心服しかねてゐる主人でも、かう目の前で惡口されては/心穩かでない。いつたいどんなヤツだらうと覗いてみると、金縁眼鏡に/髭を蓄へた一見醫者とも見える紳士風の男だ。グツと癪にさはつた。*4
「君は京山大圓を下等なヤツと言ひましたネ。京山大圓がどうして下等/なんです」*5
 ことばは穩かだつたが、語氣はかなりきつかつたとみえて、紳士はし/ばらくこちらを見てゐた。*6
浪花節語りなんて下等だよ」*7
 紳士の答へは高飛車だつた。*8
「だから、なぜ、どう下等なのかその説明を求めてゐるんです」*9
「ウルサイ男だね、君は……そんなこと君に説明する必要はないよ」*10【13上】
 紳士は噛んで吐きだすやうに言つた。*11
 そばでハラハラしながらおかみは、しきりに目顔で知らすが紳士は一/向に氣付かない。*12
「あんたに説明する必要はなくとも、私にはその説明を聽く必要がある/んです。僕は大圓の一座のものです」*13
 紳士はこの旅館に大圓が泊つてゐると知つて、さすがに驚いたらしい。*14
「あんたは、京山大圓がこゝに泊つてゐることをごぞんじなかつたので/せうが、浪花節語りが下等か否かは別の問題として、すくなくとも他人/のことを蔭で惡口するものなぞ、浪花節語り以上に下等です」*15
 紳士はこちらを大圓一座のものと知つたゝめか默つてゐた。*16
 誰が注進したか、奥二階の座敷から出て來た大圓氏が、應接間の卓子/のそばに立つて聞いてゐた。*17
「お見受けするところあんたも立派な紳士です。これからも他人のこと/なぞ蔭で惡口なさらぬ方がよろしいネ」*18
 二階へ上つて見ると美馬支配人、立花手代、圓光、圓司ら三、四人の/幹部連が大圓氏の座敷に坐つてゐた。いまの話が話題になつてゐたらし/く、自分の顔を見ると大圓氏はイキナリ、*19
「宮殿下の御前講演までやつたわしや、それを下等なヤツとは無禮なや/つや、ようやつてくれた、山木、お前なか/\主に忠義や、この月から/月給十圓昇給たる」*20
 自分は苦笑するよりほかなかつた。*21
 午後手紙の代筆三本。*22【13下】
 午後八時樂屋入り。*23
 大部屋へ這入つて見ると、またあの噂をしてゐる。それは三枚目を語/つてゐる圓八君の細君が、近々この一座に加入してくるといふ噂だ。自/分は座員中での新參で圓八君の細君を知らないが、座員の人達は、性質/が粗暴で、その上おそろしい酒癖をもち、四十を越してなほ露拂ひに等/しい三枚目讀みの圓八君と、年齡が二十以上も若くて美しく、そして優*24【14上右】しい細君とを比べてよほど興味をもつてゐるらしく、以前夫婦がこの一/座で働いてゐた當時の挿話――それも主として圓八君が細君を虐める話/――を中心に、いろ/\な噂を興味あり氣に語りあつてゐた。*25
 舞台をすませた圓八君が、袴の紐を解きながらノツソリと部屋へ戻つ/てきた。*26
「また、おふくの噂をしてゐやがつたな」*27
 ものすごい大きな目でジロリと見廻されて、座員のものたちは首をち*28【14上左】ぢめて默つてしまつた。*29
 そこに立つてゐる自分に氣がつくと、圓八君はちよつと目で挨拶し/た。圓八君はどういふ理由からか自分を尊敬してゐるらしい。おそらく/こちらが一座中での學者だとでも思つてゐるのだらう。それだけに自分/も、圓八君を一座の人達がいふやうに手のつけやうもない男だとは思つ/てゐないが、その反面に愛すべき單純さを持つ人だとも思つてゐる。*30
 座長の出だ。*31
 大圓氏は、今朝紳士が言つた白絽に黒い紋をつけた羽織を着て樂屋を/出る。二人の弟子が大團扇で左右から煽ぎながら隨いてゆく、ネタ本、/ハンカチ、扇子、湯呑、鹽を盛つた三寶などを捧げた弟子共、幹部連な/ど舞台の出口に居並ぶ。大圓氏は弟子の捧げる三寶の鹽をひと撮み舞台/に撒いて、默禱拍手。緞帳があがる。*32
「先生、エーのん來てまつせ」*33
 幇間みたいな圓光が、サモご機嫌をとり結ぶやうにいふ。*34
「どこにイ。どれや、え、どれや」
「あこ、それ西側の二本目の柱の前、それいまこつち向きましたやろ」*35
「ほに、ほに、ちよつとエーなあ……立花、立花……わしが降りてくる/までに、あれどこのんやたしかめといてんか、わい、こんばんあれいく/さかい」*36
 登場を促す拍手が聞えてくる。*37
「さ、いこ」
 大圓氏の右手が上る。弟子がサツと襖を開ける。ところが舞台の道具*38【14下】建がわるかつたとみえて、半分より開かない、あせつて力をいれるとな/ほ開かない。*39
「馬鹿ツ」*40
 大圓氏の扇子が、ピシリ音をたてゝ弟子の横びんにとんだ。幹部の連/中も座長の不機嫌を恐れて口をだすものがない。自分は見兼ねた。*41
「退き」*42
 弟子を退かせ、兩手を襖にかけて開いてやつた。*43
「我慢するんだよ、師匠はあんな人なんだから」*44
 弟子は手の甲で目をこすつてゐた。*45
 今日にはじまつたことではないが、座長のこの仕打に自分はひそかな/腹立ちを感じた。*46
 今朝の紳士にすこしばかり恥かしくなつた。*47
 高砂座二日目。大入出る。*48

*1:2021年2月27日追記はてなダイアリーからの移行時「館」が「邢」と文字化けしていたのを修正。

*2:ルビ「りよくわん・うちげんくわんおうせつま・とういす・しんぶん・み・おもて・ま/はな・ごゑ」。

*3:ルビ「ぼく・しろ・ろ・はおり・くろ・もん・なつ・しきふく/ゆうべたかさござ・なにわぶし・きやうやまだいゑん・おな・はおり・き/かとう・き・み・きふ・くろ/そ・おも」。

*4:ルビ「じぶん・しんふく・しゆじん・め・まへ・あくこう/こゝろおだや・のぞ・きんふちめがね/ひげ・けんいしや・み・しんしふう・をとこ・しやく」。

*5:ルビ「きみ・きやうやまだいゑん・かとう・い・きやうやまだいゑん・かとう/」。

*6:ルビ「おだや・ごき・しんし/み」。

*7:ルビ「なにわぶしかた・かとう」。

*8:ルビ「しんし・こた・たかびしや」。

*9:ルビ「かとう・せつめい・もと」。

*10:ルビ「をとこ・きみ・きみ・せつめい・ひつえう」。

*11:ルビ「しんし・か・は・い」。

*12:ルビ「めかほ・し・しんし/かう・きつ」。

*13:ルビ「せつめい・ひつえう・わたし・せつめい・き・ひつえう/ぼく・だいゑん・ざ」。

*14:ルビ「しんし・りよくわん・だいゑん・とま・し・おどろ」。

*15:ルビ「きやうやまだいゑん・とま/なにわぶしかた・かとう・いな・べつ・もんだい・たにん/かげ・あくこう・なにわぶしかた・いじやう・かとう」。

*16:ルビ「しんし・だいゑん・ざ・し・だま」。

*17:ルビ「だれ・ちゆうしん・おく・かい・ざしき・で・き・だいゑんし・おうせつま・テーブル/た・き」。

*18:ルビ「みう・りつぱ・しんし・たにん/かげ・あくこう・はう」。

*19:ルビ「かい・あが・み・みましはいにん・たちばなてだい・ゑんくわう・ゑんじ・にん/かんぶれん・ゑんし・ざしき・すわ・はなし・わだい/じぶん・かほ・み・だいゑんし」。

*20:ルビ「みやでんか・ごぜんかうえん・かとう・ぶれい/やまき・まへ・しゆ・ちうぎ・つき/げつきふ・ゑんあげ」。

*21:ルビ「じぶん・くせう」。

*22:ルビ「ごごてがみ・だいひつ・ほん」。

*23:ルビ「ごご・じがくやい」。

*24:ルビ「おほべや・はい・み・うはさ・まいめ。かた/ゑん・くん・さいくん・ちか%\・ざ・かにふ・うはさ・じ/ぶん・ざゐんちう・しんさん・ゑん・くん・さいくん・し・ざゐん・ひとたち・せいしつ/そばう・うへ・さけくせ・こ・つゆはら・ひと/まいめよ・ゑん・くん・とし・いじやう・わか・うつく・やさ」。

*25:ルビ「さいくん・くら・きようみ・いぜんふうふ/ざ・はたら・たうじ・さふわ・しゆ・ゑん・くん・さいくん・いぢ・はなし/ちうしん・うはさ・きようみ・げ・かた」。

*26:ルビ「ぶたい・ゑん・くん・はかま・ひも・と・へや・もど/」。

*27:ルビ「うはさ」。

*28:ルビ「おほ・め・みまは・ざゐん・くび」。

*29:ルビ「だま」。

*30:ルビ「た・じぶん・き・ゑん・くん・め・あいさつ/ゑん・くん・りいう・じぶん・そんけい/ざちう・がくしや・おも・じぶん/ゑん・くん・ざ・ひとたち・て・をとこ・おも/はんめん・あい・たんじゆん・も・ひと・おも」。

*31:ルビ「ざちやう・で」。

*32:ルビ「ゑんし・けさしんし・い・しろろ・くろ・もん・はおり・き・がくや/で・り・でし・おほうちは・さいう・あふ・つ・ほん/せんす・ゆのみ・しほ・も・ぼう・さゝ・でしとも・かんぶれん/ぶだい・でくち・ゐなら・だいゑんし・でし・さゝ・ぼう・しほ・つま・ぶたい/ま・もくとうかしはで・どんちやう」。

*33:ルビ「せんせい・き」。

*34:ルビ「ほうかん・ゑんくわう・きげん・むす」。

*35:ルビ「にしがは・ほんめ・はしら・まへ・む」。

*36:ルビ「たちはな・たちはな・お//」。

*37:ルビ「とうぢやう・うなが・はくしゆ・きこ」。

*38:ルビ「だいゑんし・みぎて・あが・でし・あ・ぶだい・だうぐ」。

*39:ルビ「たて・はんぶん・あ・ちから・あ」。

*40:ルビ「ばか」。

*41:ルビ「だいゑんし・せんす・おと・でし・よこ・かんぶ・れん/ちう・ざちやう・ふきげん・おそ・くち・じぶん・みか」。

*42:ルビ「ど」。

*43:ルビ「でし・ど・りやうて・ひら」。

*44:ルビ「がまん・ししやう・ひと」。

*45:ルビ「でし・て・かふ・め」。

*46:ルビ「けふ・ざちやう・しうち・じぶん/はらた・かん」。

*47:ルビ「けさ・しんし・はづ」。

*48:ルビ「たかさござ・かめ・おほいりで」。