瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(13)本文③

 日記の2日め、【 15 】頁上段14行めから【 19 】頁上段1行めまで。【 16 】頁と【 17 】頁の下段は挿絵で、並べた座布団の上に腹這いになって巻紙に何か書き始めようとしている男性。
 入力の要領は前回示した通りです。新字で代用した漢字は、前回に示したものに加えて「梅・難・毎・情・朋・棚・髪」です。
 これ以外に今回新たに追加した要領としては、まず、傍点「」の打ってある字を、仮に太字にしました。それから、庵点も仮に「√」で代用しました。

 ×月×日
 朝、登城する(座員のもの達は朝の挨拶に座長の旅邢に行くことを登/城といつてゐる)と、大圓氏は腹這ひになつて手紙を書いてゐた。例の/通りあやしげな、みゝずのぬたくつたやうな假名書きで、二三行書いて/は卷紙を破り、破りしてゐたらしく、机の下には紙屑の鞠がたくさん放/りこんであつた。*1
「先生、お早うございます」*2
 聲をかけても大圓氏はちよいと頭を動かしただけで筆を前にねかせた/り、横に倒してみたり、手紙を書くことに一生懸命になつてゐた。*3【15上】
「山木、つゆとはどう書くネン」*4
ツユ? つゆつて雨の降るつゆですか。そんなら普通には梅 雨と書く/んです」*5
「梅 雨でつゆか、フン、そんなら上がで下がやな」*6
「いえ、二字でツユと讀むんです。一字づゝでは梅をツとも、雨をユと/も讀まないんです」*7
「二字でツユやろが」*8
「さうです」
「そんなら上がで下がやないか」*9
 大圓氏は明らかに不機嫌になつてゐた。この上説明すると、かんしや/くを立てさうだつた。自分は、*10
「さうです」
 と、答へておくよりほかなかつた。*11
 一本の手紙を一時間ばかりかゝつて書きあげるまで、座員達は次の間/できうくつさうに坐つてゐた。*12
「山木、一本書いて」*13
 自分の仕事のうちで座長の手紙代筆が一等の難物だ。毎日のことだが/またかと情なくなる。*14
「ハア、どんなふうに書きませう」*15
 自分は卷紙と筆とを持つて構へた。*16
「ウン、染吉にやるネンよつてに……」*17
「染吉?」*18【15下】
「それ、名古屋のアレ……」*19
「ハア、わかりました。どういふ風に書きませうか」*20
「ソヤナ――、浪花節まくらみたいな調子で……名古屋名所を讀みこ/んだやうな文句で……ナルホドと感心するやうなヤツを書いてんか、あ/れがまた〃さつき〃や〃わかば〃へ持つて行つて、朋輩藝者に見せよる/よつて……」*21
 いつもこんな調子だが、今日のはまた、ばかげた難注文だつた。大圓/氏のこれだけのことばで、相當長文の手紙をこしらへなければならな/い。イヤになつてしまふ。だが、これを書かなければ月給にありつけな/い。*22
 √金の鯱鉾夕陽に映えて……。*23
 自分は泣きだしたいやうな氣持で書きはじめた。*24
 美馬支配人を筆頭に、幹部座員たちがぞろ/\這入つてきた。*25
「圓光、昨夜はどうやつた」*26
 大圓氏は圓光の顔を見るとすぐ笑ひながら言つた。*27
「どうの、かうのて先生……へゝゝゝゝ」*28
 幇間のやうな聲を立てゝ圓光は左右の膝でパタパタと疊を叩いた。*29
「ソレ見イ。あれエヽやろが……」*30
「得心した……先生」*31
「ウフヽヽヽヽヽ、圓光が得心した言うてけつかる」*32
 座長は幹部の座員達とゝもに聲をそろへて笑つた。*33
「それ見イ、圓司。お前にあれイケいふのに、ようイカンものやよつて*34【16上】に圓光がイテしもた」*35
 昨夜、戎座の棧敷に陣取つてゐた女は、××のさる大旅邢の女中で、/大圓氏とは一二度關係のあつた女だが、大圓氏は〃おれはもうイヤや、/圓司お前わしの代りにイケ、きつとものになる〃とすゝめたが、圓司が/行かなかつたので、その代りに圓光が女の宿へ行つたものだつた。*36
 自分はこの話を聞いたとき、いかに節操をもたぬ女でも、大圓氏を目/的に來てゐる女に圓光が行つたつて、女が承知する筈があるものか。赤/恥をかくのが關の山だ。もつとも圓光はアンナ男だから、女から拒まれ/てもそれが恥にもならなければ、また害なはれるほどの信用をもつてゐ/る譯でもないが……、いかに幕内もの、殊に浪花節語りに接近してくる/女が無節操であつても、そこまでは……と思つてゐた。それがいまの話/でみると成功したらしい。なんといふことだ。自分は手紙を書くながら/女の顔に唾でも吐きかけてやりたい氣持だつた。*37
 それから昨夜の女の態度なぞが、聞くに堪へぬ卑猥なことばで語られ/た。*38
「圓光、お前の千人帳にも、わしの千人帳にも名前を書かれたン、あの/女がはじめてやな、ウフヽヽヽヽヽ」*39
 笑ひながら、運ばれてきた朝の食膳に箸を執らうとした大圓氏の顔が/急に嶮しくなつた。*40
「立花ツ」*41
 大圓氏の額に青い疳すぢが立つた。*42
 手代の立花君が後の方からおそる/\顔を出した。*43【17上】
「お前、獻立の注意書を料理場へ出したんか」*44
「ヘイ………」
「ヘイやない。出したんか、と訊ねてんネン」*45
「ヘイ、出しときましたんで……」*46
「出したもんが、なんで、こんなもンついてくるツ」*47
 座長の疳癪が爆發した。イキナリ膳の上の小皿をとつて疊の上にたゝ/きつけた。*48
「お前等は、なんのためにわしについてンね。大根と蟹は、聖天さんに/たつてゐることお前等よう知つとるやろ。それがためにあの獻立につい/ての注意書を旅邢の料理場へ渡すよう、お前にしつかりいひつけてある/やないか。ナニか、お前等はわしに神斷もの破らして藝を落さそ思とん/のか。この月給泥棒めが。そんな心掛けやよつて三十にもなつてそのざ/まや、一藝に秀づるものは萬藝に秀づ、というてな、わしなら、こんな/落度をしたら主のために切腹して申譯する」*49
 自分は手紙を書きながら、この浪花節もどきの曰くと、大圓氏がどこ/にでもくつゝける、一つ覺えの〃一藝に秀づるもの……〃がをかしかつ/た。が、座員の人達はビクビクもので誰一人口をきくものがなかつた。*50
 午後八時樂屋入り。*51
 大部屋に這入つてゆくと、*52
「これ、圓八さんのヨメさんだつせ」*53
 と、弟子の圓一が化粧棚に放りだしてあつた寫眞をもつて來て見せた。*54
 こゝろもち八の字を描いた美しい眉、パツチリと開いた二重瞼の目、*55【18上】肉づきの豐かな鼻、すこし大きいかと思はれる口をやゝ左に歪めた、そ/れは笑ひ顔だつたが、なにかしら淋しさうな笑顔だつた。髪をおさげに/して兩方の肩に垂らし、紋付のきものに袴を胸高につけてゐる。舞台寫/眞だらう。裏をかへして見ると〃櫻中軒花奴、十九歳〃と書いてある。*56
 ヘンな名だ。*57
 なるほど、これでは皆の者が噂するのも無理はないと思つた。*58
 舞台から降りてきた圓八君は、私の手にある寫眞を見ると、*59
「エヘヽヽヽヽヽ」と笑ひながら目で會釋した。*60
「なか/\美しいおかみさんですね」*61
「エヘヽヽヽヽヽ」
 圓八君は寫眞をポンと化粧棚へ投げて、袴の紐を解きだした。*62
「あとから……すんまへんが……手紙一本書いておくんなはらんか」*63
「書きませう、どこへ出すんです」*64
「あいつンとこへやりまンね」
「どういふことをいつてやるんです」
「エヘヽヽヽヽヽこつちはチヤンと先生にもおたのみしてあるさかい、そ/つちを片付けて、來るもんなら一日も早う來い、というてやりまンね」*65
「失禮ですが、おかみさん字讀めますか」*66
「讀ンますとも、わたいは一字も知りまへんけど、アイツよう讀ンまつ/せ。字かて上手に書きまつせ」*67
 圓八君は自慢さうに言つた。*68
 戎座四日目、入り八分、夜、弟子達を除く座員達は遊廓へでも行つた*69【18下】らしく、宿は靜かだ。*70

*1:ルビ「あさ・とじやう・ざゐん・たち・あさ・あいさつ・ざちやう・りよくわん・ゆ・と/じやう・ゑんし・はらば・てがみ・か・れい/とほ・かなか・ぎやうか/まきがみ・やぶ・やぶ・つくゑ・した・かみくづ・まり・ほ/」。

*2:ルビ「せんせい・はや」。

*3:ルビ「こゑ・だいゑんし・あたま・うご・ふで・まへ/よこ・たふ・てがみ・か・しやうけんめい」。

*4:ルビ「やまき・か」。

*5:ルビ「あめ・ふ・ふつう・うめのあめ・か/」。

*6:ルビ「うめのあめ・うへ・した」。

*7:ルビ「じ・よ・じ・うめ・あめ/よ」。

*8:ルビ「じ」。

*9:ルビ「うへ・した」。

*10:ルビ「だいゑんし・あき・ふきげん・うへせつめい/た・じぶん」。

*11:ルビ「こた」。

*12:ルビ「ぽん・てがみ・じかん・か・ざゐんたち・つぎ・ま/すわ」。

*13:ルビ「やまき・ぽんか」。

*14:ルビ「じぶん・しごと・ざちやう・てがみだいひつ・とう・なんぶつ・まいにち/なさけ」。

*15:ルビ「か」。

*16:ルビ「じぶん・まきがみ・ふで・も・かま」。

*17:ルビ「きち」。

*18:ルビ「きち」。

*19:ルビ「なこや」。

*20:ルビ「ふう・か」。

*21:ルビ「なにはぶし・てうし・なこやめいしよ・よ/もんく・かんしん・か/も・い・ほうはいげいしや・み/」。

*22:ルビ「てうし・けふ・なんちゆうもん・だいゑん/し・さうたうちやうぶん・てがみ/か・げつきふ/」。

*23:ルビ「きん・しやちほこゆふひ・は」。

*24:ルビ「じぶん・な・きもち・か」。

*25:ルビ「みましはいにん・ひつとう・かんぶざゐん・はい」。

*26:ルビ「ゑんくわう・ゆうべ」。

*27:ルビ「だいゑんし・ゑんくわう・かほ・み・わら・い」。

*28:ルビ「せんせい」。

*29:ルビ「かん・こゑ・た・ゑんくわう・さいう・ひざ・たゝみ・たゝ」。

*30:ルビ「み」。

*31:ルビ「とくしん・せんせい」。

*32:ルビ「ゑん・とくしん・い」。

*33:ルビ「ざちやう・かんぶ・ざゐんたち・こゑ・わら」。

*34:ルビ「み・ゑん・まへ」。

*35:ルビ「ゑん」。

*36:ルビ「さくや・ざ・さしき・ぢんと・をんな・だいりよくわん・ぢよちう/だいゑんし・どくわんけい・をんな・だいゑんし/ゑん・まへ・かは・ゑん/い・かは・ゑんくわう・をんな・やど・い」。

*37:ルビ「じぶん・はなし・き・せつさう・をんな・だいゑんし・め/あて・き・をんな・ゑんくわう・い・をんな・しようち・はず・あか/はぢ・せき・やま・ゑんくわう・をとこ・をんな・こば/はぢ・しんよう/わけ・まくうち・こと・かた・せつきん/をんな・むせつさう・おも・はなし/せいこう・じぶん・てがみ・か/をんな・かほ・つばき・は・きもち」。

*38:ルビ「をんな・たいど・き・た・ひ・かた/」。

*39:ルビ「ゑんくわう・まへ・にんちやう・にんちやう・なまへ・か/」。

*40:ルビ「わら・はこ・あさ・しよくぜん・はし・と・だいゑんし・かほ/きふ」。

*41:ルビ「たちはな」。

*42:ルビ「だいゑんし・ひたひ・あを・た」。

*43:ルビ「てだい・たちはなくん・はう・かほ・だ」。

*44:ルビ「まへ・たて・ちゆういがき・れうりば・だ」。

*45:ルビ「だ・たん」。

*46:ルビ「だ」。

*47:ルビ「だ」。

*48:ルビ「ざちやう・かんしやく・ばくはつ・ぜん・うへ・こさら・たゝみ・うへ/」。

*49:ルビ「まへら・だいこん・かに・せうてん/まへら・し・たて/ちゆういがき・りよくわん・れうりば・わた・まへ/まへら・みたち・やぶ・げい・おと・おも/げつきふどろぼう・こゝろが/げい・ひい・ばんげい・ひい/おちど・しゆ・せつふく・まをしわけ」。

*50:ルビ「じぶん・てがみ・か・なにはぶし・いは・だいゑんし/ひと・おぼ・げい/ざゐん・ひとたち・たれひとりくち」。

*51:ルビ「ごご・じがくやい」。

*52:ルビ「おほへや・はい」。

*53:ルビ「ゑん」。

*54:ルビ「でし・ゑん・けしやうたな・ほ・しやしん・き・み」。

*55:ルビ「じ・か・うつく・まゆ・ひら・へ・め」。

*56:ルビ「にく・はな・おほ・おも・くち・ひだり・ゆが/わら・かほ・さび・ゑかほ・かみ/りやうはう・かた・た・もんつき・はかま・むなたか・ぶたいしや/しん・うら・み・ちうけん・さい・か」。

*57:ルビ「な」。

*58:ルビ「みな・もの・うはさ・むり・おも」。

*59:ルビ「ぶたい・お・ゑん・くん・わたし・て・しやしん・み」。

*60:ルビ「わら・め・ゑしやく」。

*61:ルビ「うつく」。

*62:ルビ「ゑん・くん・しやしん・けしやうたな・な・はかま・ひも・と」。

*63:ルビ「てがみ・ぽんか」。

*64:ルビ「か・だ」。

*65:ルビ「せんせい/かたづ・く・にち・はや・こ」。

*66:ルビ「しつれい・じよ」。

*67:ルビ「よ・じ・し・よ/じ・じやうず・か」。

*68:ルビ「ゑん・くん・じまん・い」。

*69:ルビ「ざ・かめ・い・ぶ・よ・でしたち・のぞ・ざゐんたち・いうくわく・い」。

*70:ルビ「やど・しづ」。