瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(15)本文⑤

 日記の4日め。【 21 】頁上段10行めから【 25 】頁上段3行めまで。
 【 22 】頁と【 23 】頁は見開きの挿絵で、10月21日付(14)本文④に示した日記の3日め、楽屋で京山大圓が圓八・おふく夫婦と対面する場面でしょう。【 22 】頁、姿見の前に立って弟子たちに袴を着けさせているのが京山大圓、【 17 】頁で腹這いになって手紙を書いていた人物と同じで髭で判別出来ます。脇に立っている大圓よりも背の高い島田髷の美人は二号(妾)の「およし」でしょう。さらにその右脇に控えている青年が「私」山木東太郎かと思われます。【 23 】頁、5人描かれる真ん中に1人だけ立っている、目がぎょろっとしたずんぐりした男性が圓八でしょう。その脇に正座している若い女性がおふく、他に、手前に羽織を着た幹部らしい後ろ姿が1人、圓八の左脇に膝立ちして蓋をした湯呑みを載せたお盆を捧げ持った男性、圓八の後ろにもう1人、やはり大圓の弟子と思われる若者が控えています。左上の余白に [哲] 印。
 今回新たに新字で代用した漢字は「飯・判・喝・采・福」です。

 ×月×日
 早いものだ。おふくさんが一座に加はつてから三ケ月になる。*1
 なるほど、座の人達が言つたやうに圓八君はよくおふくさんを蹴つた/り毆つたりする。まつたくおふくさんの身體には生傷の絶え間がないと/いつてもいゝ、その原因は主に嫉妬からだ。*2
 昨夜、床に這入ると間もなく、またしても圓八君の部屋に騒々しいも/の音がする。圓丸が行つてゐるらしいが、なか/\鎭まりさうになかつ/た。*3
「圓八さんまたやつてまんね、ちよつと行つたつておくんなはらんか」/圓丸が自分を呼びにきた。*4
「打つちやつとけばいゝよ」*5
 一旦はさういつて見たが、なか/\鎭まりさうにないので、大儀だつ*6【21上】たが床を出た。*7
 圓八君はおふくさんの身體に馬乘りになり、右手に髪をぐる/\と卷/きつけ、頭を疊に押しつけてゐる。おふくさんは眞つ蒼な顔をして唇か/ら血を流してゐた。*8
「圓八さんどうしたんです。いゝかげんにしたまへ」*9
 自分が右腕に手をかけると、圓八君は〃すみまへん〃といつて素直に/離した。*10
「どうしたんです」
 圓八君は默つてゐた。おふくさんは蒼い顔でじつと圓八君を瞠め、い/まにも泣けさうなのを喰ひしばつてゐるらしかつた。*11
「今夜わたしが、圓司さんのそばに居つたというて、こんなに……こん/なに……」*12
 おふくさんは泣いてしまつた。*13
 こんなことが幾度あつたかもしれない。それだのに座員中では自分が/いちばんおふくさんとはよそ/\しくしてゐる。すこしも親しくならな/い。それは何故だらうか。間違つたらウルサイといふ氣持もあるが、そ/れよりも老成ぶつてゐても、二十四にもなつて、しかも幕内の飯を食つ/てゐながら、まだ童貞でゐるといふ間拔けた自分だ、その女に對する臆/病さが主な原因だらうと思ふ。*14
 午後、大圓氏のお供して日昇軒に球を撞く。大圓氏は自稱百五十、自/分はたしかな百だ。こゝでもさかんに〃一藝に秀づるもの……〃が飛び/だした。自分はいつもの通り苦笑しながら撞いた。忠義な家來はお主に*15【21下】勝たぬものだ。*16
 午後七時半樂屋入り。*17
 舞台には圓八君があがつてゐた。大圓氏の樂屋部屋に這入ると、おふ/くさんが一人で自分の書いた大圓氏のネタ本を見てゐた。*18
「これ、あんた書いてゞしたん」*19
「ハア……」
「わたし、あんたにお願ひがありますの……二つ……慾張つてますや/ろ」*20
「なんです」
「一つは……わたし、いづれは語るつもりですよつて、一段讀切のネタ/が書いてほしおまんね。も一つは……あんたの寫眞頂きたいの……」*21
 おふくさんは目を伏せたまゝいつた。*22
「寫眞? 寫眞なんかどうなさるんです」*23
「こんな稼業してたら、いつ別れるかしれしまへんやろ、記念のため頂/きたいの」*24
「あげますが、いま寫したのがありませんから、つぎに寫したときにあ/げます」*25
「さう……」
 おふくさんは、なんだかすこし不滿さうにしてゐた。*26
 今夜は自分が改作した〃勸進帳〃が大圓氏によつて上演された。演題/の張りだしに〃大圓自作〃と書けと命ぜられたので、すこし苦い氣持だ/つたが、命令の通りに書いた。*27【24上】
「大丈夫ですか」*28
 大圓氏がまだ十分暗記してゐないことを知つてゐた自分は、緞帳のあ/がる以前にたづねて見た。*29
「心配ない、大丈夫や、判らなんだらゴマカシたる」*30
 自分は棧敷裏の廊下に立ちつくした。果して大圓氏はでたらめかたことを連發した。その度毎に自分はヒヤヒヤしたが、それでも大喝采だ/つた。*31
「どや、山木。ウマイもんやろ。ボロクソや」*32
 大圓氏は上機嫌だつた。*33
 こんな有樣だから浪花節語りは努力しない、勉強しない。いまに檜/舞台から轉落して、場末の小屋に小さくなつてゐなければならぬ時が來/るだらう。*34
 自分は不愉快だつた。*35
「ナーおふく、なんぼ山木に學があつたてあかへん、山木の學が手を鳴/らさすのと違ふぜ、わしの藝が手を鳴らさすネン」*36
 度し難いと自分は思つた。*37
 後から大圓氏の羽織をとつてゐたおふくさんは、肩越しに自分の顔を/見て、ちよつと笑つたまゝ默つてゐた。*38
「そら、さうだすとも……」圓光がひきとつて相槌を打つた。*39
 突つかつて行きさうに嶮はしくなつてゐた自分の氣持は、おふくさん/の笑顔で柔らげられた。*40
「先生、無茶言やはりまんな」*41【24下】
 薄暗い廊下でおふくさんは笑ひながら自分に囁いた。*42
 八雲座打上げ。入り八分。*43
 明日は福井へ遠乘りだ。*44

*1:ルビ「はや・ざ・くは・みつき」。

*2:ルビ「ざ・ひとたち・い・ゑん・くん・け/なぐ・からだ・なまきじ・た・ま/げんいん・おも・しつと」。

*3:ルビ「ゆうべ・とこ・はい・ま・ゑん・くん・へや・さう%\/おと・ゑんまる・い・しづ/」。

*4:ルビ「ゑん・い/ゑんまる・じぶん・よ」。

*5:ルビ「う」。

*6:ルビ「たん・み・しづ・たいぎ」。

*7:ルビ「とこ・で」。

*8:ルビ「ゑん・くん・からだ・うまの・みぎて・かみ・ま/あたま・たゝみ・お・ま・さを・かほ/ち・なが」。

*9:ルビ「ゑん」。

*10:ルビ「じぶん・うぎうで・て・ゑん・くん・なほ/はな」。

*11:ルビ「ゑんはちくん・だま・あを・かほ・ゑん・くん/な・く」。

*12:ルビ「こんや・ゑん・を/」。

*13:ルビ「な」。

*14:ルビ「いくど・ざゐんちう・じぶん/した/なぜ・まちが・きもち/らうせい・まくうち・めし・く/どうてい・まぬ・じぶん・をんな・たい・おく/びやう・おも・げんいん・おも」。

*15:ルビ「ごご・だいゑんし・とも・につしようけん・たま・だいゑんし・じしよう・じ/ぶん・げい・と/じぶん・とほ・くせう・ちうぎ・けらい・しゆ」。

*16:ルビ「か」。

*17:ルビ「ごご・じはんがくやい」。

*18:ルビ「ぶたい・ゑん・くん・だいゑんし・がくやべや・はい/ひとり・じぶん・か・だいゑんし・ほん・み」。

*19:ルビ「か」。

*20:ルビ「ねが・よくは」。

*21:ルビ「ひと・かた・だんよみきり・か・しやしんいたゞ」。

*22:ルビ「め・ふ」。

*23:ルビ「しやしん・しやしん」。

*24:ルビ「げふ・わか・きねん・いたゞ/」。

*25:ルビ「うつ・うつ/」。

*26:ルビ「ふまん」。

*27:ルビ「こんや・じぶん・かいさく・くわんしんちやう・だいゑんし・じやうゑん・ゑんだい/は・だいゑんじさく・か・めい・にが・きもち/めいれい・とほ・か」。

*28:ルビ「だいじやうぶ」。

*29:ルビ「だいゑんし・ぶんあんき・し・じぶん・ちやう/いぜん・み」。

*30:ルビ「しんはい・だいじやうぶ・わか」。

*31:ルビ「じぶん・じきうら・らうか・た・はた・だいゑんし/れんはつ・たびごと・じぶん・だいかつさい/」。

*32:ルビ「やまき」。

*33:ルビ「だいゑんし・じやうきげん」。

*34:ルビ「ありさま・なにはぶしかた・どりよく・べんきやう・ひのき/ぶたい・てんらく・ばすゑ・こや・ちひ・とき・く/」。

*35:ルビ「じぶん・ふゆくわい」。

*36:ルビ「やまき・がく・やまき・がく・て・な/ちが・げい・て・な」。

*37:ルビ「ど・がた・じぶん。おも」。

*38:ルビ「うしろ・だいゑんし・はおりこたこ・じぶん・かほ/み・わら・だま」。

*39:ルビ「ゑんくわう・あひづち・う」。

*40:ルビ「つ・ゆ・けは・じぶん・きもち/ゑかほ・やは」。

*41:ルビ「せんせい・むちやい」。

*42:ルビ「うすくら・らうか・わら・じぶん・さゝや」。

*43:ルビ「くもざうちあ・い・ぶ」。

*44:ルビ「あす・ふくゐ・とほの」。