瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(23)

 昨日まで12回に分けて本文を紹介しました。
 探偵小説ではありませんから、本作と若干の未収録作品のために新たに論創ミステリ叢書『山本禾太郎探偵小説選Ⅲ』が編まれるようなことは、恐らく望めないでしょう。10月13日付(06)に述べたように本文の売込み(?)を考えていたのですけれども、10月17日付(10)に述べたように論創ミステリ叢書26『戸田巽探偵小説選Ⅱ』の資料調査の過程で「東太郎の日記」の掲載誌は明らかになっていましたので、実はそんな必要もなかったのでした。
 大正期の浪花節の資料としての価値は、あるでしょう。斯界に明るい人による注解を附して刊行されるのが理想なのですけれども、浪曲界にとって余り悦ばしい内容ではありません。従って、こちらの売込みも上手く行きそうもありません。
 そこで、内容については引続き私が調査を続けようと思っていますが、差当って、設定の確認をして置くこととしましょう。10月19日付(11)本文①に引いた「略歴」に、「浪花節語り」の「一座の食客たること七年」とある時期のことを描いたもので「筆者の言葉」には「人と所は悉く実在、ただ人気商売ですから劇場名と人の名は変名にしました」とあって、内容も「事実も事実」と云うのです。この「事実」であることの強調が、10月6日付(01)で見たように、モデルの女性に名誉毀損で訴えられそうになる原因になってしまうのです。結果、訴訟を回避するために「徹頭徹尾架空の小説」という「建前」で逃げて示談解決となったのですが、その顚末を記した後年のエッセイ「あの頃」では「堂々と応訴しても決して負けないだけの自信はあった」と述べていて、内容について「架空」でもなければ、事実を誇張もしくは歪曲したのでもないことに、自信を持っていたように読めます。
 しかし、たとえ事実が書いてあるのだとしても、書かれたいとは思わない内容でしょう、これは。――やはり扱いにくい小説です。論創ミステリ叢書15『山本禾太郎探偵小説選Ⅱ』に紛れ込ませることが出来れば、それが一番都合の良い方法だったかも知れません。
 けれども、2012年1月4日付「福田洋著・石川保昌編『図説|現代殺人事件史』(4)」などに述べたように、私は戦前の日本や藝人の世界を単なる綺麗事のように思い込もうとする単純な人たちに賛成し兼ねますので、その意味からも実態はこんなものであろうというところを示して置きたいのです。いえ、無筆・無教養・驕慢で人格的に問題がありながら彼が生み出すお金に屈せざるを得ない人々の姿、そんな特殊な社会の中で、強姦相手と夫婦とならざるを得なかった若い女性が、自ら運命を切り開いて行こうとする姿は「泥水の中より生ひ出でたる蓮」を見るようで、清々しい気持ちになります。ただ、そのための具体的な行動が殆ど描写されずに、いつしか女主人公の心の支えになっていた主人公「山木東太郎」との恋愛にばかり偏しているのは、不足を覚えます*1。しかしこれも「筆者の言葉」にあるように、そこまで書いては「百枚や二百枚では書ききれぬほど」になってしまいましょう。ここで、10月16日付(09)に引いた「選評」に指摘されている、筆者がその日に自分の立場で知り得たことしか書けない「日記体といふフォームを選」択したことが効いてくる訳です。
 さて、京山大圓のモデルは、10月19日付(11)本文①に述べたように初代京山小圓(1877.3.15〜1928.10.30)でしょう。しかし櫻中軒花奴改め富士雪子の「おふくさん」のモデルは、10月5日付「山本禾太郎『消ゆる女』(1)では山下武「『小笛事件』の謎」の記述に拠って初代京山小圓孃(1903〜1973.9.16)との推測を示して置きましたが、内容を確かめた上で再検討するに、年齢からしてその可能性はほぼ有り得ないことが分かりました。
 次回、そのことについての確認から始めましょう。(以下続稿)

*1:加えて、さだまさしの自伝的小説の映像化で、さだ氏に当たる雅彦或いは雅志の役を坂口憲二内田朝陽菅田将暉が演じていることに覚えざるを得ない恥ずかしさ、と同じものを感じます。