瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(28)山本桃村②

・梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』(2)
 「山本桃村」が登場する章は、86頁上段12行めからの「(一〇) 放 浪」です。順を追って書かれているのですが、はっきり年月が書かれていないところもあるので、この章の頭から、2013年10月26日付「赤いマント(5)」と同じ手順で、時期を窺わせる記述を拾いながら読んで見ましょう。まず冒頭、上段13〜16行め、

 大正五年三月、懐かしの浪人部屋がなくなったことから、/畠山出入りの飯田松次郎氏が京山若丸先生一行の支配をする/ことになり、その伝手*1で私も若丸先生の一座に加えられるこ/とになった。

とあります。畠山というのは伯州翁畠山末吉すなわち二代目京山恭安斎(1856〜1916.4.10)で、浪人部屋というのは大阪の畠山家がどこにも一座しておらず独り立ち出来ていない「浪人」に寝床と食事を供していた「部屋」なのです。
 さて、この京山若丸(1878〜1956.7.22)一座の興行がいつまで続いたのかと云うと、87頁上段21行め〜下段6行め、

 私が若丸一向に加わって過した四ヵ月は、真に貴重な月日/であった。名人の至芸に接して数知れぬ教訓を、無言のうち/に与えられたのであった。
 五月、岡山市開演の折、鳥人スミスの宙返り飛行が練兵場/で行なわれた。物凄い人出の中にまじって私も見物したが、/僅か五分足らずの宙返りを見るために、数時間練兵場の塵埃/を浴びたものだった。

とあります*2。88頁下段3〜5行め「僅か四ヵ月」に終わったのは、「七月には若/丸先生の渡米、お供は門人の丸太、若友と決まって、私はお/払い箱となった」からで、89頁上段2〜3行め「六月末には若丸先生とお別れして、神戸に帰って、夏/一ヵ月は」実家の「理髪職人入方業日の出屋の店で」過ごすことになります。
 そこに、90頁上段2〜3行め「私と同様若丸師の渡米で職場を失っ/た飯田松次郎氏が」大阪に現われた桃中軒薄雲太夫という女流浪花節パトロンに頼まれて、3〜4行め「この薄雲太夫を中心に九州方面へ巡業に/出ようという計画、私に誘いが来て、救われた思いで同座」することになります。
 次に、本作を読む前、10月5日付「山本禾太郎『消ゆる女』(1)」にて誤って女主人公のモデルと見当を付けてしまった京山小圓孃が登場しますので、参考までに5行めから16行めまで抜いて置きましょう。

‥/‥。九州へ出る試験として大和高田の弁天座で薄雲太夫を始/め、京山円嬢(後の小円嬢)吉田広近、京山みどり、広沢万/菊など女流中堅を集め、男性は私一人が参加して開演。
 神戸大正座で菊春・円吉の合同興行の楽屋を訪ずれた時、/円吉師の門人で用使いをしていた小娘がこの円嬢だった。僅/かの月日でいま合同一方の座長格として看板を並べている。/落日の如き自分を顧り見て、恥かしいより悲しかった。
 高田の興行が終ったあと、飯田氏が九州行きの準備を進め/ている間、円嬢の父和田亀太郎に頼まれて、彼女の郷里であ/る紀州和歌浦からその付近を数日手伝って飯田氏のもとへ戻/り、九月一日を初日に九州への旅、これから九州二度目の御/難という幕になる。


 大正5年(1916)には数えで十四歳ですから、年齢からしても京山小圓孃は「おふくさん」のモデルにはなり得ません。
 さて、九州巡業ですが、女流は結局、座長薄雲太夫しか参加しなかったようです。そして散々な結果(御難)に終わります。90頁下段16〜19行め、

‥‥。一気に下関へ飛んで門司へ渡/り、福岡県下から佐賀、長崎へと、二ヵ月に渉る巡業に一と/興行も当りを見ず、興行が悪ければ金まわりも悪い、楽屋は/憂鬱の連続、‥‥


 結局、「佐賀の伊万里の大正座」で遂にその先の「興行契約」もなくなったところで、「お人好しの飯田松」次郎が「質*3の悪い」薄雲太夫らのことを「いよいよ腹にすえかねて」、「岡山の横山里次郎さん」に「一時引揚げ運賃」として「借用し」た金を「局止めの電報為替で送るから、お前ンとらア薄雲らに悟られぬように、そっと金を受け取って」東京の三河家円車の弟子で「門司の大福座で私を頼って来た」若い男「円喬と二人で岡山へ乗って来い」という「置去り一件」に進展し、結局「岡山で」一座は「解散、円喬は東京へ、私は神戸へ帰って、当分は脛かじり」ということになり、94頁上段5行め「何年振りかで父の家でお正月を迎え」るのです。
 この正月は、大正6年(1917)1月です。しかしながら、この次に差し挟まれる回想を読むと、少々不安になります。94頁上段12〜21行め、

 昨今、原水爆の影響で放射能障害の話をよく聞くが、その/昔、欧州大戦に於て、西部戦線で用いられた毒瓦斯の影響と/やらで、世界中に悪性感冒が大流行し、わが国ではスペイン/風邪といった。大戦景気でわが国もよいお裾分けに預かった/のは結構だったが。この冬は悪性感冒という有難くないお裾/分けまでが巡って来て、至るところバタバタ斃れる、火葬場/は必要に応じきれず棺桶の山だという。この感冒で叔父亀太/郎方では一家総倒れ、親族の中で一番親切だった叔母が死ん/だ、その弟の豊さんも続いて死去、好況の一面、いまわしい/暗い正月でもあった。


 「欧州大戦」という呼称については2014年7月27日付「中島京子『小さいおうち』(41)」で触れました。――日本に於けるスペイン風邪は、東京都健康安全研究センターの「日本におけるスペインかぜの精密分析」(年報,56巻,369-374 (2005))に拠ると、大正7年(1918)11月と大正9年(1920)1月末の2回がピークでした。2回めのピークについては2011年1月12日付「画博堂の怪談会(1)」に触れたことがあります。或いはスペイン風邪以前のインフルエンザだった可能性もありますが「日本におけるスペインかぜの精密分析」の「図1.インフルエンザによる死亡者数の月別推移」を見るに、大正6年(1917)1月のインフルエンザによる死者数は多くないのです。そうすると、ここはスペイン風邪の流行時期を記憶違いしていることになります。「正月」という時期に間違いがないとすれば、叔父一家の不幸は大正9年(1920)1月のはずです。
 次いで、94頁下段1行め〜95頁下段1行めに時期不明の「伊賀上野の山田芳五郎氏に頼まれて、江州の信楽へ行った時の話」が、「ここに思い出した話がある」として挿入されます。
 そして95頁下段2行めから大正6年(1917)1月の続き、

 初春早々、若丸師がアメリカから帰朝、畠山の縁故で飯田/松次郎は若丸支配人に返り咲き、よい身分になったが、私は/お払い箱のままで、あとの呼び声はかからなかった。


 そこへ来た仕事の話に「山本桃村」が絡んでいるのです。今回はその時期の確認だけで長くなってしまいましたので詳しくは次回に回しましょう。(以下続稿)

*1:ルビ「つて」。

*2:横川裕一のサイト「航空史の片隅 ART SMITH 鳥人の軌跡」によると、アート・スミス(1890.2.27〜1926.2.12)の岡山県岡山市の練兵場での飛行は大正5年(1916)5月27日(土)午後1回と28日(日)午後2回。27日は「雨の中」の飛行でしたが鶯童の回想は「塵埃を浴びた」とあるので28日でしょうか。

*3:ルビ「たち」。