瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(30)山本桃村④

・梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』(4)
 前回、支配人と副支配人(手代)について本作と照合して、そこまでになってしまいましたが、いよいよ「秘書として小円師に書道を教えていた山本桃村」について検討して行きましょう。
 まずは『浪曲旅芸人』で、京山小圓をどのように描いているかを見て置きましょう。87頁下段10行め〜88頁上段14行め、

‥‥。浪界に於て/は、雲・奈良・小円の三巨頭時代が、雲右衛門の死去に依っ/てその一角が崩れ、奈良・小円・若丸の三巨頭に移って来た。/この小円という人、比類なき声量と浄るり口調の重厚な語り/口で、雲・奈良に並んで遜色ないばかりか、ある点に於ては/それよりも優れたところがあったかも知れないが、惜しいか/な小円先生には自家独特の作品台本が乏しかった。京山小円/のお家芸としては桜川五郎蔵と佐倉宗五郎の二曲にとどまり、/他は殆んど桃中軒の台本に依存していた。曰ク村上喜剣、赤/垣源蔵、等々、雲右衛門演ずるところの小林桃雨作である。/この点に於て雲右衛門、奈良丸に一歩を譲らざるを得ない。/要するにお付作家として雲右衛門の小林桃雨、奈良丸の渡辺/励風、いずれも国学者として名のある人で、作品それぞれに、/雲の豪、奈良の美、その個性が生きている。小円のお家芸と/いえども、文学的素質に欠けた単なる浪花節の台本なのだか/ら、太刀打ちにはならない。第三位に甘んじねばならぬ理由/がそこにあったのである。
 初代京山小円、本名吉田松吉、書を好んで自ら松雪と号し/た。昭和三年十月、胃癌の手術がいけなくて、五十二歳で斃/れるまで、全然衰えを見せなかった美声の持ち主、死後解剖/によって普通人より気管が異常に長かったことが判った。一/ト息で流す独特の一ト節は、二分十秒から二十秒まで続く。/これほどの人としてレコードの売れなかったのも道理、一ト/節満足に吹込んだらレコード半面の殆んどが終ってしまう、/これでは売れるわけがない。過ぎたるは猶及ばざるにしかず、/というのであろうか。


 「書を好んで」とありますが、10月22日付(14)本文④に「午後床店の弟子が持って来た色紙は、むろん自分が代筆、大圓の落款で渡してやった。」とあって、実は山本氏の代筆によってこのような虚名を得ていたようなのです。山本氏が辞めた後は――10月21日付(13)本文③に描写されているような按配では、やはり新たに誰か雇って代筆させたのでしょう。前回引いたところに「秘書として小円師に書道を教えていた」とありました。10月20日付(12)本文②に「午後手紙の代筆三本。」とあるのは、まさに「秘書」としての業務です。中には10月21日付(13)本文③で書かされていた、名古屋の藝者宛の、内容と文字の美しさを兼ね備えた手紙の代筆もあった訳です。しかしながら、表面的には「書道を教えていた」ことになっていたのでしょう。
 書や手紙の代筆以外にも、10月23日付(15)本文⑤の後半にネタの代作について、不満を表明していました。尤も、梅中軒鶯童が山本氏のことを「台本作家」とは見ておらず、周囲に実力ある作家が存在しなかったことを京山小圓が桃中軒雲右衛門・吉田奈良丸に及ばなかった理由にしているのは、何とも皮肉なオチと云うべきでしょうか。
 ことのついでに、小林桃雨(1923.11.25歿)渡辺励風(1933.2歿)についての記述も抜いて置きましょう。168頁上段16行め〜181頁上段5行め「(一六) よいどれの記」の章に、大正10年(1921)10月に、171頁上段12〜13行め「雲右衛門先生の台本を担当/した小林桃雨氏にも‥‥始めて会った」ときのことを述べ、さらに上段20行め〜下段15行め、

 桃雨氏は元九州日報の記者、雲右衛門の旗挙げに際して協/力し、記者をやめて座付作者となり、桃中軒の新台本はこと/ごとく彼の筆になったもの、義士伝は先輩福本日南の著作に/拠ったものであるが、中には全然の創作もある。豪放磊落な/氏の性格は作品の上によく現われている。斗酒猶辞せずとい/う豪の者、雲右衛門在世中は特別に待遇されていたが、雲右/衛門の死後浪人してなお朝夕酒に惑溺し、遂に最後は悲境落/魄のうちに世を去ったと聞く。半世紀、否、六十年を過ぎた/その台本をいま読んで見ておかしくないのはさすがである。
 桃雨氏と対抗的に吉田奈良丸の台本を書いた渡辺励風氏、/備中高梁の生れ、倉敷中学で教鞭を執っていたが、浪花節に/一身を投じて作者となり、桃雨氏の豪放淡々たる筆致に対し/て、励風氏は艶麗優雅な文章、節詩、さすがに国学者として/の才筆は、いまも立派に生きている。昭和八年二月、岡山で/死去した。
 小林桃雨、渡辺励風、これに続く……否、これを凌ぐ浪曲/作家の出現を、私はいま熱願待望している。


 近代デジタルライブラリーで閲覧できる全國浪花節奨励會編纂『社會教育の覇王 浪花節名鑒(増補)』は巻末が欠けていて奥付がないのですが、杉岡文樂「凡例」に「大正十三甲子ノ春」とありますから大正13年(1924)に刊行されたものでしょう。巻頭一〜二頁7行め「桃中軒雲右衛門」に続いて波線で区切って8行めに「小林桃雨」とあり、9〜12行めに次のように紹介されています。

 老新聞記者として知られ酒豪を以て大正の安兵衛と云わるゝ程有名なる氏は浪花節/文句の改良を計り其麗筆は嘗て絡陽の紙價を高からしめたる雪の曙義士銘々傳となり/浪界の爲めに盡力甚だ深かつた。
大正十二年十一月二十五日死亡せらる


 この本には五九頁に「京山小圓」が写真入りで出ていますが、本作の挿絵に見える「大圓氏」は(正面から描いたものではありませんが)似せてあるようです。
 さて、我慢を重ねて来た山本氏も、品性下劣の幹部(圓光のモデル)が支配人となるに及んで、ついに手代立花君のモデルとともに我慢し切れなくなって京山小圓の一座を離脱した訳です。けれどもそのまま、浪界から足を洗うことになるのですがその辺りの事情は次回検討することにします。
 そして10年の雌伏の時期を経て「新青年」の創作探偵小説・懸賞募集に二等当選(一等当選作なし)を果たして、幽霊作家ではなく「山本禾太郎」の名で作品を発表することになったのでした。(以下続稿)