瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(31)山本桃村⑤

・梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』(5)
 11月6日付(29)で見た、大正6年(1917)2月3日に岡山県の津山で旗揚げした一座がどうなったか見て置きましょう。96頁上段4〜17行め、

 当時の津山駅は現在の津山口で、町まではかなりの距離が/ある。町中へ入って、あちこちに張り出した辻びらを見ると/“新進浪花節――京山鶯童”とある。目当ての宮川座に着く/と早々責任者の立仙君に理由を訊くと、飯田さんは只単にウ/チの鶯童とばかりで、梅中軒ということを言っていない、一/方立仙君も畠山のウチの者なら京山だと早呑込みして辻びら/を作ったと言うのだ。しかも昨日の節分に初日を開けている。/本人の私が知らないうちに話を決めて、初日に私が乗込まな/いので津山から問合わせの至急電報、そこで気が付いて私の/方へ今すぐ乗ってくれと言って来た、飯田のおじさん実にの/んびりとしたものである。梅中軒が京山になっていたとして/も、鶯童の文字は厳然としてポスター面の一枚看板なのだ。/座長の知らぬ間に初日が出て、その座長が二日目に乗込んで/来るなんて話は、余り聞いたことがない。


 現在のJR西日本津山線津山口駅が、当時の中国鉄道本線の終点津山駅でした。95頁下段16行め〜96頁上段3行めの「津山鉄道」の描写も興味深いものがありますが、脱線し過ぎては先に進みませんので省略しました。
 さて、座長が不在のまま興行が始まっているのですが、もちろん不在の座長には替え玉になる人がいたのでした。96頁上段18行め〜下段1行め、

 一行は広沢万菊、京山みどり、高間雪子、広沢浜子と女流/が四名、男性は私と桃中軒福雄の二人、昨夜の初日はモタレ/の福雄が鶯童の替え玉で勤めたそうで、今晩は私が福雄にな/ってモタレを勤めるというわけだ。有名ならざる者は、こん/な場合どちらになってもゴマカシが利く。


 津山では「ええおっさん」の福雄の「鶯童」の評判が良く、「ヒネクサッ」た鶯童の「モタレの福雄」は「も一つ」という評価だったので、このままで押すことになりました。
 広沢万菊と京山みどりは11月5日付(28)に引いた大正5年(1916)8月の記述中にも見えていました。
 続きを見て行きましょう。96頁下段12行め〜97頁下段16行め、

‥/‥。福雄は福右衛門師が福丸時代からの高弟で、得意の読物/は軍事探偵橘秀夫、芸が巧いというより非常に要領のいい浪/花節だった。この巡業が機縁で、一座の広沢万菊と夫婦にな/って、郷里の大和御所*1で、いまも元気に暮している。まこと/に縁は異なものである。
 立仙君は、飯田さんの振れこみで、私を余程高く評価して/いたらしいが、実物を聞いてがっかりしたらしい。
 この一座で岡山県から広島県の一部にかけて三カ月の巡業、/ずいぶん仔細に小まわりしたものである。立仙君と、事務の/山本桃村君を合わせて男性は四名だから、都合よく男女四組【96下】になる。いつしか男女二人で一部屋取るような工合になった。/一夜冗談まぎれに男女四組の色分けしたのが、かく相成った/次第である。その色分けを明らかにすると、
 福雄―万菊、桃村―浜子、立仙―みどり、私と雪子
 すすけた荒れ壁に、ゆがんだ人形の顔や、みだらな文字を【97上】べたべたと落書した楽屋、中には“牛と狐の泣き別れ、モウ/コンコン”などという落書もある。物置に等しい楽屋に一ト/組ずつ納まると、誰れの目にも四組の夫婦と見えるのも無理/はない。尤も私と雪さんは年齢も雪さんが余程年長だし、殊/に老*2けて見える人だったから、夫婦としては釣り合いが取れ/ない、差当り姉弟というところだ。他の三組はいず/れも似合いの年頃、福雄・万菊が結ばれたことは前/に書いた通りだが、桃村・浜子の組も相当交渉が進/みつつあるように思えたが、遂に条約締結に至らず、/立仙・みどりに至っては全くの対立状態、互いに警/戒厳重で、ともすれば戦闘が始まりそうな睨み合い。/さればとて今更一人部屋に別れるのは何となくモノ/に角が立つ、そんな工合でどこまでも睨み合いの同/室が続いている。
 私と雪子の組、これは最も円満である。円満とい/っても、へんな意味に取られては困る。‥‥


 97頁上段が5行だけで、下段も6行めから字数が減るのは97頁左上に挿絵があるからです。3〜10頁「目次」の最後(10頁9行め)に「挿画 食 満 南 北」とありました。食満南北(1880.7.31〜1957.5.14)は昭和32年、本書刊行の8年前に死んでいるのですが、右下が崩れて小舞が見えている土壁の、右上に相合傘が、そして上部に牛、下部に狐が描かれ、牛と狐の間に「と」そして狐の絵の左に「でモウコン 」とあって、左側に「破かべにこれはどうした筆の跡」の句、右下の床に当たるところに「北南」の印があります。本文を見て書いたとしか思われないのですが、食満氏存命中に雑誌等に連載されたことがあったのでしょうか。
 それはともかく、高間雪子との間に、98頁上段3行め「親密なる関係は断じてなかった」というのですが、梅中軒鶯童は巡業中の2月24日に満15歳になったばかりでした。
 結局巡業中の話題はこの程度で、98頁上段8〜13行め、

 出発当初からヘマを踏んだ巡業が、満足な結果を得られる/筈もない。三カ月の旅からヘトヘトになって大阪へ引揚げた/時、私は本綿の久留米絣の袷一枚の着たきり雀、寄るべない/身を日本橋五丁目の、雪さんの親元に当分居候ときめた。
 造幣局の桜が青葉のころ、雪さんが久留米絣の袷の裏を剥/がして単*3え物にしてくれた。


 巡業は2月3月4月の3ヶ月、大阪に戻ったのは4月下旬か5月の頭という見当でしょう。(以下続稿)

*1:ルビ「ごせ」。

*2:ルビ「ふ」。

*3:ルビ「ひと」。