瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(33)山本桃村⑦

 山本氏はこの時期のことを、本作以前に随筆に書いたことはありました。
 その1つが、論創ミステリ叢書14『山本禾太郎探偵小説選Ⅰ』の「評論・随筆篇」339〜343頁に収録される随筆「ざんげの塔」です。横井司「解題」387頁1〜2行めには、

 「ざんげの塔」は、『探偵趣味』一九二七年六月号(三年六号)に発表された。
 浪花節語りの事務員をしていた頃の思い出話。

とあり、373頁3〜13行めには、

‥‥、若いころには「桃/中軒×右衛門と云ふ浪花節語りの事務員をして居た」(「ざんげの塔」『探偵趣味』二七年六月号)/と禾太郎自身が回想している。この「桃中軒×右衛門」とは、明治大正期に活躍した浪曲師・桃/中軒雲右衛門(一八七三〜一九一六)だろうか。ちなみに、若いころに禾太郎と交際があった九/鬼紫郎は「禾太郎は青年時代は夢多い文学青年で、職業も転々とし、浪花節の一座に顧問のよう/なかたちで入りこみ、各地を放浪したこともあった」(『探偵小説百科』金蘭社、七五)と述べて/いる。その根拠は不明だが、九鬼のエッセイ「慈父・山本禾太郎」(『幻影城』七七年九月号)を/読むと、禾太郎から昔話を聞いたことが回想されているから、本人からじかに聞いたことをふま/えているのかもしれない。九鬼によれば、「窓」を引っさげて探偵文壇にデビューした当時は「代/書業をやっていた」ようで(前掲『探偵小説百科』)、「そのまえに神戸地方裁判所に書記として/勤めたことがあり、多くの裁判記録に目をとおしていた」(同)という。‥‥

と言及されています。「書道を教え」るくらい能筆で、裁判所の書記もやっていたのであれば代書業は適任だったでしょう。
 それはともかくとして、「ざんげの塔」から参考になりそうな記述を抜いて置きましょう。340頁(339頁は扉)2〜8行め、

 私が、桃中軒×右衛門という浪花節語りの事務員をしていた当時のことです。今でこそ/浪花節などは、どこかの片隅へ片付けられてしまいましたが、その当時の桃中軒×右衛門/と言えばずいぶん大したものでした。
 ちょうど福岡を打ち上げて、長崎へ乗り込むことに定まりましたので、私は「先乗り」/として一人の書生(この社会では弟子のことをこう言っていました)を連れて、一行より/四、五日前に長崎へ乗り込みました。
 かねて小屋元から知らして寄越した、花咲町の「みふじ」という旅館へ着きました。


 ところが、この旅館の女中たちが「私」の「顔を見て」は「意味の不明な笑いを咬みしめ」るのです。
 その理由は翌日になって判明します。341頁16行め〜342頁17行め、

 書生の話によると、私が着く前夜までその旅館に滞在していたのが、魔奇術の松旭斎天/×の幹部だったのです。その天×の番頭が、あとへ桃中軒の一行が来るということを、女/中から聞いて、
「そうか、桃中軒が来るのか、用心せいよ、桃中軒に一行には『伝さん』という女にか/けては、とても凄い男が居るから……」
 と、いうような調子で、散々女中達を脅かしたものらしいのです。
 事実、一行の会計事務をやっていた「立花伝吉」という男は、天×の番頭が吹聴したよ/りも以上の、女にかけてはその社会で有名な男です。
 何と、私がその無類の艶福家「立花伝吉」と間違えられたという訳です。
 書生からその話を聞いた私は、何ともしれぬ嬉しいような、悲しいような、こう変な気/持ちになったもんです。
 と、いうのも無理もありますまい。私と来たら、ただ色が浅黒いということと、鼻下に/短い髭があるということだけが、「伝さん」に似ているだけで、似ても似つかぬ野暮天で、/幕内生活をやっていながら、女から優しい言葉の一つもかけてもらったことがないという/男なんです。
 その野暮天野郎を、「伝さん」だと勘違いした女中たちが、あまりの幻滅に吹き出した/のももっともな話です。
 その日の午後、女中が「宿泊人名簿」を持って来たとき、私はその氏名欄へスラスラと/「立花伝吉」と書いてしまったのです。
 たとい三日でも、名前だけでも、色男になりたかったのです。


 しかしこの「氏名詐称」は「その翌日」、「本物の伝さん」が到着する前に「伝さん」に馴染みの「芸者」が訪ねてきたことで、あっけなく「ばけの皮が剥」がれてしましました。
 さて、山本氏は「七年」一貫して京山小圓の一座の「事務」として、小圓の秘書のような仕事をして過ごしていたと思われるので、ここで「桃中軒×右衛門」と書いていたのは、仮名にして実際を隠蔽したものと思われるのです。その仮名を斯界の第一人者らしき名前にしたのは、見栄と云うべきでしょうか。しかしながら「山本禾太郎」は本名「山本種太郎」に近い筆名なので、関係者が読めばすぐに分かったでしょう。
 「立花伝吉」は、11月6日付(29)の最後に引いた、女主人公にちょっかいを出すところが通じるようで、本作の「立花手代」らしいのですけれども、これは立花手代のモデル「立仙香」と「立」が共通します。尤も「立仙君」は、11月8日付(31)では同室の女流浪花節語りと「全くの対立状態、互いに警戒厳重」で「どこまでも睨み合い」と云うので、全く「艶福家」らしくないのですけれども、いづれ関係者が読めば分かる程度の無名の人物です。
 それが本作ではモデルの有名人を、ほぼそのままの仮名で書いているのは、昭和3年(1928)に京山小圓が、昭和6年(1931)には京山圓遊が歿していたことに起因しましょう。憚るところがなくなって、遠慮なく実態を暴いて見せた、ということになりそうです。筆名「米島清」は本名からは離れましたが、主人公「山木東太郎」が本名に近いので、やはり関係者が読めばすぐに分かったでしょう。いえ、これまでの限られた人の目に触れるばかりの探偵小説誌とは違って大部数の週刊誌の懸賞小説だったので、トラブルの原因となってしまったのでした。
 と、ここまで筋を通してふと思うに、――この「桃村」という号の由来が気になるのです。すなわち、11月7日付(30)の後半で見た小林「桃雨」に類似することが、気になるのです。もちろんこの「桃」は「桃中軒」の「桃」にも通じます。そうすると「さる大家」というのは桃中軒雲右衛門で、弟子に「桃」の入った名乗りの者はいませんが、浪花節語りではなく関係者として生きて行くことを選択し、京山小圓の一座に参加するに際して、古巣の記念に「桃村」という号をもらった可能性も、なくはないような気がするのです。それも桃中軒雲右衛門ではなく、小林桃雨から。
 いえ、この随筆の「桃中軒×右衛門」は京山小圓だと決め付けましたが、桃中軒雲右衛門の許にいた時分から「事務員」として働いていた可能性も、否定は出来ないのです。(以下続稿)