瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

吉田秋生『櫻の園』(4)

 8月11日付(3)の続き。
 この『万葉集』の和歌の引用で、私が痛恨の思いを抱くのは、もう1点、8月21日付「吉田秋生『吉祥天女』(6)」に既に触れたことだけれども、和歌の意味についての説明・現代語訳や解釈が全く示されていないことだ。正確に訳せたかどうかはともかく、大体の意味は分かるはずだという前提で書かれている。或いは、当時「LaLa」の読者であった現役女子高生は必ずしもこの前提を共有していなかったかも知れない。しかしながら、それでも現在のようにまるで呪文のようにちんぷんかんぷんだということはなかったろう。繰り返しになるけれども、当時と違って、大学入試に必要なくなり、このような教養を問われる場面もめっきり少なくなってしまった今時の高校生に、古文が身に付くくらい真面目に勉強させようというのが余程無茶なことのように思われる。そして訝しいのは、国粋主義的な発言がネット上に目に付く割に、古典教育復興みたいな話には一向ならないことなのだけれども、そのカラクリは8月9日付(1)とそこに挙げた旧稿に述べたのでここでは繰り返さない。確かに、古文を読み込んだらとてもじゃないがあんな風に独善的に愛国を語ることは出来なくなってしまうはずだから。

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 平成8年(1996)8月28日(27日深夜)放映のBSマンガ夜話で、茨城県立麻生高等学校(共学)卒業の永作博美(1970.10.14生)と群馬県立太田女子高等学校卒業のTARAKO(1960.12.17生)が「リアル」さを強調していた。ちなみに作者の吉田秋生(1956.8.12生)は共学の東京都立■■高等学校卒業である*1
 映画の出演者が下手すぎるという意見をちらほら目にするが、このぎこちない感じはむしろ「リアル」だろう。男子のいない分、女子高の生徒は繕わなくて良いので、少々ノリが変わっている。共学だと男子の方が馬鹿だから、女子がきっちりして来るものだが、男子がいないとその分、遠慮と緊張感を欠いて、良く云えばポーズ抜きに伸び伸びとしてしまうのである。――例えば、隣の校舎から丸見えなのにカーテンを引かずに体育の前後の着替えをしたりする。隣の校舎の同じ階の職員室には私ら異性(一応)がいるのに、気にしないのである。何の気なしに窓外に目を遣って、「あっ」と、――目の遣り場に困るとはこのことだ。それから、仰け反りそうになる位の口臭や腋臭を振りまいている生徒もいた。……もちろん、普段は気付くほど接近しないから分からない。試験後に答案の採点基準について聞きに来て、私は電車内でも臭気で口を阿呆みたいにパカァと開けている若者にすぐに気付いてしまう位、敏感なので、うわぁあ逃れたい、と思いつつ相手をしない訳にも臭気対策をして出直すよう指導する訳にも行かぬので、顔を顰めつつ堪えたのであった。言ってやった方が良かったのだろうか?
 それはともかく、映画は、原作に親しむにつれて、無理だ、とまで云おうとは思わないが、どうにも説明不足の箇所が目に付いて仕方がなくなって来た。原作の登場人物は皆、異性を意識しているので、決して同性愛ではないのだけれども、映画の方はその異性との関わりが殆ど描写されていない。原作に登場しない2年生の舞台監督のキスシーン(と前夜の車中での淫行を匂わす会話)が目立ち、原作に由来するのは「vol.1」の主人公中野敦子のシンちゃんとの初体験が、原作では演劇部員ではない井上志摩子たちとのお喋りの中で語られるくらいである。中野敦子は、姉の中野綾子がアイスを差入れに登場しているけれども、シンちゃんは登場しないし原作に比して扱いは随分軽くなっている。原作でも、杉山紀子・倉田知世子・志水由布子の3人よりは軽いのだけれども。(以下続稿)

*1:BSマンガ夜話でも「漫画原作者竹熊健太郎(1960.8.29生)が作者が共学出身であることを指摘して、女性ゲストの指摘する「リアル」さが「実感」か「取材」かを問題にしていた。