瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(34)

 12月8日付「山本禾太郎「第四の椅子」(21)」に予告した関田一喜の経歴についての記事を準備しようと思っているのですが、なかなか調べに出られません。記事の難読箇所や振仮名の確認も出来ていないままです。
 そこで久し振りに「東太郎の日記」に戻って、この小説の背景の確認をして置きたいと思うのです。
 11月10日付(33)までに私の示した見当は以下のようなものでした。
明治44年(1911)京山小圓の事務員(秘書)となる。
・明治45年(1912)夏 「東太郎の日記」前半は主人公の年齢(二十四歳)からこの年。
大正6年(1917)1月 京山圓遊の支配人就任に反撥して京山小圓の一座を「七年」で脱退。
・同年2月 梅中軒鶯童を座長とする一座を組織して岡山県広島県の各地を巡業。
・同年5月 興行に失敗、一座を解散して故郷の神戸に戻る。就職と結婚が決まる。
・同年6〜7月 殺人鬼入江三郎脱走事件*1
 時期は「東太郎の日記」主人公の年齢と、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』の記述、そして随筆「妻の災難」を組み合わせて割り出しました。齟齬することなく配置し得たと思っています。
 さらに事務員になる以前に「さる大家に弟子入り」していたと云うのですが、京山小圓とは「東太郎の日記」から窺う限りでは師弟関係であったとは思われませんから、その「大家」は梅中軒鶯童が山本氏を「山本桃村」と呼んでいることから察するに「桃中軒雲右衛門」らしく、すなわち「桃村」の号は「小林桃雨」辺りに由来するのではないか、との推測も示して置きました。
 しかしながら、この説明は巧く合っているところを取り上げたまでなのです。いえ、最も蓋然性の高い説明をなし得た、と思っています。けれども、この小説の後半の時間の流れを追うと、訳が分からなくなってしまうのです。
 10月29日付(21)に見た日記の10日めの冒頭には、

 おふくさんと亀山で別れてから二年半になる。自分が大圓氏の一座を辞め、幕内ものの足を洗ってから一年半だ。

とありました。これを大正6年(1917)1月頃に京山小圓の一座を辞め、5月頃に完全に浪界からも足を洗った、という山本氏のほぼ確実な経歴に当て嵌めると、この日のこととして語られる女主人公(おふくさん)との再会は、大正7年(1918)の秋から年末に掛けてのことと見当が付けられます。すなわち、女主人公が夫とともに京山小圓の一座を抜けたのは大正5年(1916)の春頃ということになります。
 そうすると、大正元年(1912)秋頃から大正5年(1916)春頃まで、随分長い間、主人公は女主人公と一座していたことになります。この小説を読む限り、もっと短い間に女主人公は主人公を知り得て新たな生き方へと進む糧としたかのように見えるので、少々戸惑います。(以下続稿)

*1:2016年3月5日追記2016年3月4日付「山本禾太郎「妻の災難」(1)」に述べたように「6〜7月」ではなく「7月」とすべきなのですが、そのままにして置きます。