瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(35)

 昨日の続き。
 日記の10日め、作者をモデルとする主人公「山木東太郎」が女主人公「おふくさん」と再会したのが大正7年(1918)秋か冬頃のこととして、10月30日付(22)で見た日記の11日めは「おふくさんと伏見の停留所で別れてからすでに二年になる。」との書き出しで、単純に計算すると大正9年(1920)のこととなります。
 しかしながら、これは合いません。次に、

 自分は今朝新聞を見て驚いた。ラジオ版におふくさんの写真が出ている。娯楽の時間、午後八時五十分から、富士雪子の浪花節〃義民新助〃が放送されるという。
 夜、妻とともにラジオを聴く。

とあるからです。
 ラジオ放送については7月1日付「正岡容『艶色落語講談鑑賞』(07)」にも少し触れましたが、大阪放送局(JOBK)は大正14年(1925)の2月28日設立、5月10日に試験放送、6月1日に仮放送を開始、大正15年(1926)12月1日に本放送を開始しています。
 そうすると山本氏が大正6年(1917)に足を洗って結婚してからラジオ放送を聞くまでは短くても10年近くを要している訳で、この辺りの時間の処理は事実そのままではないようです。
 しかしこんな風に思うのは山本氏についての知識があるからで、作中にはっきりと時代が示されている訳ではありません。この日記の最後、11日めは、予備知識なしに読むと、つい最近のことのように読めます。
 そこで、予備知識なしに考えると、11日めはいつに設定出来るかを確認して見ましょう。
 主人公が京山小圓をモデルとする京山「大圓氏の一座を辞め」て「幕内ものの足を洗ってから」は3年半経過している計算になります。実際には京山小圓の一座を抜けたのと幕内者の足を洗ったのとは時間差があるのですけれども、予備知識なきこの小説の読者には同じ時のことと読めるはずです。京山小圓は昭和3年(1928)10月30日に歿していますから、遅くとも昭和3年の上半期には辞めていないと間に合いません。そうすると昭和6年(1931)の下半期が、想定され得る下限になります。少し余裕を取っても昭和7年(1932)の初めまでとなります。上限はラジオ放送からして、大正15年(1926)は早過ぎましょうから昭和2年(1927)という見当で良いでしょうか。昭和2年(1927)から3年半前は大正12年(1923)か大正13年(1924)となります。
 山本氏の経歴を考える上ではこんな想定をして見たところで全く意味はありません。京山小圓の一座を抜けた時期が、11月9日付(32)までに考証したように梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によって大正6年(1917)1月と確定しているからです。ではなんでこんな想定をして見たのかというと、こういう背景を知らぬ読者は読みながらこれをいつのことと見当を付けるだろうか、ということを考えてみたいからです。――すなわち、この小説は大正初年のことを描いているのに、読者には大正末年のことを描いたように見せている訳です。
 これは、意図的なものでしょう。10月6日付(01)に引いた回想「あの頃」にあるように名誉毀損で訴えられそうになったくらい「事実」を踏まえて書かれているのです。10月19日付(11)に引いた「作者の言葉」に「人と所は悉く実在、ただ人気商売ですから劇場名と人の名は変名にしました」と断るくらいの「事実も事実」なのです。京山小圓のように物故者であれば構わないでしょうが、まだ「人気商売」を続けている人には迷惑が掛かりかねません。この上、時期まで特定可能にしてしまうと、登場人物を仮名にした意味がなくなってしまいましょう。そこで11月2日付(25)にて確認したように、主人公の年齢を「二十四」とすることで、読者には悟られぬよう時期を示すに止めたのです。作者の年齢が開示されない限り読み解けない暗号のようなものです*1。とにかく「二十四」により「事実」性を担保した上で、足を洗ってからの時間を実際より短く書くことでモデルの特定がなされないよう工夫をした、そう解釈するのが良いと思うのです。(以下続稿)

*1:そして、私が初めて山本氏の暗号を読み解いて、山本氏の伝記の空白部分を適切に埋め得た、と思っているのです。だとすると、やはりこの作も『山本禾太郎探偵小説選Ⅲ』にならないでしょうか。『消える女』と抱き合わせて……。