瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤い半纏(10)

・中村希明『怪談の心理学』(8)
 昨日の続きで、中村希明『怪談の心理学』50頁7〜11行めを抜いて見ましょう。

 しかし、着せかけられるのがはんてんに変わっているだけで、あとのディテイルはまっ/たくそっくりの「赤いチャンチャンコ」の話が、それよりかなり前の小学校の女生徒の伝/聞として載っている。
 新潟出身の学生相談室の女子職員が語ってくれた赤いチャンチャンコの話も昭和四十八/年ごろであるから、この話はしばらく流布していたことになる。


 そして50頁12行め〜51頁7行めまで「赤いチャンチャンコ」の話を引いています。1月21日付(07)にオチを引用した常光氏の報告です。オチに続く部分を抜いて置きましょう。51頁5〜7行め、

‥‥。女子生徒が小学五、六年生の頃、/友人から聞いた話。
 文・常光徹。出典・「昔話伝説研究」第十二号(昔話伝説研究会)


 『現代民話考』を見る限りではこの「女子生徒」がどこの学校の何年生なんだかさっぱり分かりませんが、「昔話伝説研究」第十二号は昭和61年(1986)3月刊、調査は昭和60年(1985)7月、当時常光氏が勤務していた中学校の1年生を対象として行われたものでした。すなわち、小学5年生は昭和58年度、小学6年生は昭和59年度、ちなみに私よりも1つ下の学年です。
 中村氏はこの話を「それよりかなり前の小学校の女生徒の伝聞として載っている。」としていました。恐らく当て推量です。確かに『現代民話考』の書き方では、この女子生徒がいつの人なんだか分かりません。「昔話伝説研究」の刊年も示されておりません。簡単に検索等で確認が出来る現在とは違って、ネットも発達していない時期でした。しかしそれにしても、年次推定が好い加減だと云わざるを得ません。
 「学生相談室の女子職員が語ってくれた赤いチャンチャンコの話」のことは、2014年1月4日付「赤いマント(74)」に引いた「はじめに」にも言及されていました。「昭和四十八年ごろ」と云うのは(後述するように)この話を女子職員が聞いた時期と思われます。中村氏はその10年後の昭和58年頃に女子生徒が聞いた話を、どうも「それよりかなり前」のものと思い込んでいるらしいのです*1
 話は単線で伝わる訳ではありません。複数の筋が同時並行している可能性も考えなければいけないはずです*2のに、どうも中村氏は、一つの筋で時代を追って同じように変化して行くものとして捉えて整理しているようです。
 この常光氏の報告に中村氏は、51頁8〜10行め、次のようなコメントを付しています。

 この話では婦警さんがトイレにはいる別の理由がつくなどもう少しディテイルがふえて/いる。共立女子大生は語呂合せのために、自分が小学生のころにきいた「赤いチャンチャ/ンコ」を「ハンテン」に脚色したのだろうか。


 中村氏の整理では「赤いハンテン」が前回見たように昭和56年(1981)ということになります。中村氏が「赤いチャンチャンコ」の流行を昭和48年(1973)頃と見ているのは、ここの書き方からも確実でしょう。すなわち、昭和56年(1981)の大学生は確かに昭和48年(1973)には小学生であった勘定になります(学年によっては中学生ですが)。しかし、全国一律に同じ話が流布するわけでもなければ、クラスや学校の全員が同じ話を共有する訳ではないので、この筋の引き方も、単純に過ぎるように思われるのです。(以下続稿)

*1:ここでは「この話はしばらく流布していたことになる」を、女子生徒の話が先で女子職員の話が後、という意味の「しばらく」と考えてみましたが、女子職員の話が先で女子生徒の話が後の「しばらく」と取ることも可能です。――書き方も基準も曖昧なので解釈に苦しみます。

*2:しばらく途絶えていた話が、何かの切っ掛けで息を吹き返すこともある訳です。