瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子城(5)

 残念ながら、復興は殆ど進んでいないようだ。その前段階の、大袈裟に過ぎる嵩上げとか防潮堤とかをモタモタ作っているうちに、莫大な予算をつぎ込んで人の殆どいない街を拵えることになりかねない様相だ。いくら安全な街を作ってもこんなに待たされては、人は毎日生きてかなくちゃいけないのだから、何年も工事のために追い出されているうちに別に生活基盤が出来上がってしまう*12012年3月11日付「夏目漱石『硝子戸の中』の文庫本(1)」及び2011年4月15日付「港屋主人「劇塲怪談噺」(3)」にも述べたことだが、何十年後、何百年後かに津波に洗われることになるとしても、その場に直ちに再建させるべきだったと思っている。今でもそう思っている。このまま計画通り最後まで続けるよりも、大概にして置いて止めて、直ちに人を集めて住ませて経済活動を再開させた方が良いと思っている。

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 一昨日からの続きで、『戦国の終わりを告げた城』60頁6〜11行めを見てみよう。

 第三は、大学内ではなく、御主殿の滝より奥の広場に起こったできごとである。二つの沢がひ/とつになって開けた氾濫原で、ここでキャンプをしたボーイスカウトのリーダーの体験である。/少年たちはみな寝こんだのになぜか眠りつけない。そのうちにテントのまわりをジャリッ、ジャ/リッと歩く音がして、つづいてガシャッ、ガシャッと鎧がゆれる音。外をみたいとおもいながら/も怖くてできず、一睡もしないまま夜明けをむかえたという。同じような話はほかからも聞いて/おり、‥‥


 この氾濫原は御主殿の滝から200mほど遡ったところで、堀籠隆(1964.9生)*2HP「『風雲!八王子城』 〜史跡・八王子城趾探検記〜」の「八王子城趾・精密ルートマップVer2.00・サンプル版」を見るに「城山川北沢」と「城山川南沢」の2つの沢の合流点である。
 これを読んで、以前住んでいたところで知遇を得た郷土史家の話を思い出した。2015年9月14日付「断片と偏り」の注2に引いた発言の実例として、古墳を潰して造成した市営団地で夜中、鎧武者の歩く姿が度々目撃されている、と教えられたのである。しかし、これは書けないのだ、と。その点、八王子城は深山で、小田原攻めの一環として猛攻を受けて落城したことは周知されているから、このような話を憚らずに出来る訳である。(以下続稿)

*1:早めに(期待を込めて)無理して戻った人たちは窮しているようだ。――東北は人口が少ないからうっかりこんな工事を始めようという気になってしまったのかも知れぬが、南海トラフ地震朝日新聞DIGITAL「南海トラフ地震の被害想定」)で同じような工事をしたら日本は破産するのじゃないか。復興のためにはこういう工事よりも街の活動を再生させる方が先である。現状は優先順位が間違っているとしか思えない。

*2:3月26日追記】「怖いものが見たい人限定/軍師(Mr.参謀)のプロフィール」より生年月を追加。